全てフィクションです。

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国家の脆さを忘れてしまった日本人は、近年の騒動で目を覚ますか

はじめに

 国家とは脆いものです。竹島問題や尖閣諸島問題など、国家の領域のはざまでは常に問題が絶えず発生し、紛争当事者の双方にとって国家の領域は脅かされます。また、政治体制も不変ではありません。日本は約80年前の敗戦でガチガチの軍国主義から平和主義に一気に方向転換をしました。また、その80年ほど前の明治維新では、武家社会から近代中央集権国家に一気に方向転換をしています。

 このように、国家とは実は流動的なものなのです。現在の日本人は敗戦による方向転換から約80年もたっているために、このような国家の流動性というものを忘れているのではないでしょうか、そして、近年の国際情勢はそのような日本人の「素朴なまでの国家の硬直性への思い込み」を刺激するのでしょうか、というのがこの記事での趣旨です。

 しかし、日本人も敗戦後に一貫して国家の硬直性を信じていたわけではありません。冷戦終結度に日本人が急速に国家の流動性を忘れてしまったことを、「攻殻機動隊」「パトレイバー」「サイコパス」「アキラ」の4つのアニメ作品をもとに考察してみたいと思います。

 

国家は流動的である。

 国家とは何か、という問いを立ててしまうと、それこそ一冊の本がかけてしまいます。しかし、私はその方面の専門的な勉強をしたことはありませんし、厳密な議論を行える素養も持っていません。とりあえずここでは、「国家とは共同体の一種である」という素朴な定義から始めてみようと思います。

 共同体とは流動的なものです。構成員は絶えず入れ替わり、共同体の理念や方針も変化します。場合によっては共同体そのものが消滅してしまったり、まるで違う性格の共同体にいつの間にか変化してしまったりすることもあります。ひとまずここでは、国家は共同体であり、共同体とは流動的なものである、つまり、国家は流動的なものだと言うことができるでしょう。問題は、国家の流動性はどのような場面で観測できるのか、ということです。

 まず、わかりやすい例で言うと、戦争や革命などで消滅してしまう、ということがあるでしょう。第一次世界大戦ではオスマン帝国(現トルコ)が消滅しました。ロシアは革命によってソ連となったが、そのソ連も消滅してしまいました(実際にはソ連は「加盟国がゼロ」なだけで、国際法上は今も存在しているらしいですが)。オスマン帝国ソ連のような大国であっても消滅することがあるのですから、中小規模の国家が消滅することは自明の理とも言えてしまいます。

 

 また、国家はその領有域を変化させることもあります。ドイツやオーストリアは20世紀初頭までは広大な領土を誇っていましたが、現在はその領域は縮小しています。現に日本も、大日本帝国時代は最大でシンガポールオセアニアまで領有域を拡大させています。しかし敗戦によってそれらの海外領土を失い、あわや沖縄や北海道も失う可能性がありました。国家の領有域が変化する際は大体戦争が関わってくるため、このような話題はセンシティブでもあります。そのため、国家の領有域の変化は大っぴらには議論されず、人々の認識からも零れ落ちてしまいがちです。

 そして、国家はその性格や政治体制を意外なほどあっさりと変えてしまいます。ここで分かりやすいのが日本でしょう。日本は19世紀後半に封建的・地方分権的な武家社会から、明治維新を経て一気に中央集権的な近代国家へと生まれ変わりました。その後は大正デモクラシーなど民主主義の風が吹いたことはありましたが、最終的に軍部とそれを支持する民衆が暴走して無謀な戦争へと突き進むことになりました。そして敗戦に打ち沈んだものの、アメリカの庇護の下で急速に経済発展を遂げ、民主主義を実践する経済大国へと生まれ変わりました。日本の場合とくに興味深いのが、そのような急激な変化が70年から80年の周期で起きていることでしょう。

 また、国家の性格や政治体制があっさりと変わってしまった例には韓国や台湾があります。韓国は最近では民主主義の国ですが、1960年代から軍部独裁で、民主化したのは1980年代です。台湾も同様で、1980年代までは国民党による一党独裁体制でした。「韓国や台湾が独裁国家だった」という事実は、現在の20代以下の人々にはなかなか想像ができないでしょう。

 

 このように、国家というものは意外と流動的で、脆いものです。しかし、最近の日本人、特に若い世代はそのことを忘れているような気がしてなりません。今の「日本国」という国家が永遠に続くものだと素朴に信じ込んでいます。それはまるで、バブル期までの日本人が「会社は永遠に続く」と素朴に信じていたこととダブって見えます。

 そのような「国家の永続性への素朴な信頼」というものを、「サイコパス」というアニメから考察してみたいと思います。そして、実は日本人も以前は「国家は流動的・脆いものである」ということを認識していたということを、「攻殻機動隊」「パトレイバー」「アキラ」の3つのアニメ作品から示してみます。

 

アニメから見る、「日本国」の永続性への信頼の歴史

 「サイコパス」というアニメの名前を聞いたことがある読者は多いでしょう。個人の犯罪傾向が「サイコパス」という犯罪係数で測定され、その数値をもとに逮捕や処刑が可能な近未来の日本を描いたアニメ作品です。舞台中では様々な人間ドラマが繰り広げられ、それらが倫理的な問題と絡み合っているのが「サイコパス」の面白さです。しかし、本稿では少し異なる部分に焦点を当ててみようと思います。それは、「サイコパス」の劇中では、日本の国家体制が(少なくとも第1期、第2期では)揺らがない、ということです。

 劇中では統治機構への疑義などが挟まれ、実際に統治機構への攻撃も行われます。しかし、クーデターなどが計画されることはなく、「日本国」という国家体制が揺らぐことは基本的にありません。むしろ、「日本国が揺らぐような政変」は、ストーリーをややこしくさせる要素ということで意図的に無視されているような感想すら抱きます。「統治システム」や「社会運営システム」への疑義が挟まれるのみで、「日本国をぶっ壊す!」といった感じのキャラはでてこないのです。

 私はこの「サイコパス」というアニメを見ていて、現在の日本人は本当に平和を満喫しているという印象を受けました。あまりにも平和に慣れ過ぎていて、「国家の体制が実力によって変更される」というストーリーが荒唐無稽に感じられるのでしょう。そのため、「サイコパス」では、国家体制への攻撃は描かれなかったのだと思います。

 

 「サイコパス」は日本を舞台にした近未来SF作品です。しかし、日本を舞台にした近未来SFではどの作品も「日本の国家体制」を硬直的に描いているのかというとそうでもありません。「アキラ」「攻殻機動隊」「パトレイバー」など、20世紀の終わりに作られた近未来SFでは、どれも日本の国家体制が揺らぐような大事件が大きく取り扱われています。

 「アキラ」や「攻殻機動隊」では、第三次世界体制によって国家機構が変容してしまった「日本」が出てきます。また、「パトレイバー」では、クーデターや体制転覆を狙う勢力が出てきます。これらの三つの作品と「サイコパス」の違いが浮き彫りにするのは、20世紀の日本人と21世紀の日本人の「感覚の変化」だと思います。日本国の体制が揺るがされることが描かれた三つの作品は20世紀の作品であり、日本国という国体が不変のものとして描かれている「サイコパス」は21世紀の作品です。つまり、前者では国家が「流動的で脆いもの」として描かれているのに対して、後者は国家が「固定的で頑丈なもの」として描かれています。この「作品が作られた時代の違い」が、これらの作品における「国家観」に影響しているのではないでしょうか。

 

冷戦期に国家の持続性を常に問われてきた日本人、冷戦後に素朴に国家を信じ続けた日本人

 思えば、「アキラ」「攻殻機動隊」「パトレイバー」の制作陣というのは、冷戦時代に物心がついて、独特の「国家に対するプレッシャー」を感じて育ってきた人々だったのかもしれません。国家転覆とまではいかないものの、共産化や東側による軍事侵攻、マルクス主義の影響による「国家観への揺さぶり」という社会的影響の下に育ってきた世代なのでしょう。

 そんな彼らが描く作品には、当然「日本国という国家は盤石でもなんでもない。もし何かの「衝撃」があれば、脆くも崩れてしまう可能性があるものだ」という意識があったのかもしれません。それに、彼ら製作陣の親世代というのは第二次世界大戦を経験した世代でもあり、なおさら「国家」に対する感性が鋭かったのでしょう。また、視聴者の側もその様な人々が多く、支持を受けたのかもしれません。

 しかし、「サイコパス」は2010年代に描かれた作品です。製作陣たちは冷戦終結から20年がたち、おそらく「東側からの揺さぶり、思想による揺さぶり」をリアルに経験している世代ではありません。むしろ、フランシス・フクヤマが提唱した「歴史の終わり(冷戦終結自由主義と資本主義が勝利した。これからはグローバル化自由主義の波が全世界を覆い、世界は楽観的な発展のみを続ける、というような思想)」を真に受けて育ったであろう世代です。

 事実、冷戦終結後に学校教育を受けた私は、「日本国という国家が揺さぶられる」事を前提とした教育は受けませんでした。現状のグローバリズムと資本主義、自由主義、民主主義の良い側面だけを打ち出した、非常に楽観的な「公民教育」を受けたという記憶があります。

 

 このような、世代間の感性の違いが、アニメ作品に描かれた「日本国」にも現れているのではないでしょうか。しかし、近年の国際情勢はどうにも「国家の盤石性」を揺るがしつつあるようです。戦争だけでなく、今までは地下に潜んでいたポピュリズムが興隆し、「国家とは何か」「国家とは固定的なものなのか」という問いがリアリティをもって迫ってきます。

 このような状況で、日本人はいままでのように、「日本国という国家は固定的なものである」という素朴な信念を持ち続けることができるのでしょうか。それとも、何か別の「国家体制に対する深刻な影響」を受けて、何か別の感性を持つようになるのでしょうか。

 

 しかし、これは今後2、3年では特に大きな変化はないと思います。ただ、10年、20年、30年とたった時、何か重大な変化が起きていてもおかしくはないと、個人的には思います。もちろん、私は日本に生まれ、日本語をしゃべって日本文化に適応して育ってきたので、日本という国に愛着を感じています。また同時に、日本に住む外国人の方も社会に包摂していくべきだと考えています。しかしそれでも、現状の日本人が「日本国という国家」にたいして抱いているであろう素朴な信仰に、危うさを覚えずにはいられないのです。

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「ウクライナ情勢の解説」に関するテレ東YouTubeチャンネルがすごいという話

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はじめに

 最近、マスコミやジャーナリズムに対する信頼が揺らいでいます。「マスコミ」と「ゴミ」という言葉をかけ合わせた「マスゴミ」という言葉も広まりつつあります。確かに、最近のジャーナリズムはどうにも「何かおかしい」という印象を受けることがあります。2010年代には安倍政権に対する無理筋な批判を繰り返し、主要顧客である「左派」に対して心地の良いニュースばかりを繰り広げていた印象がありました。政治的立場は様々にあるので、それら「自社の顧客」に対して需要があるニュースを届けることには合理性があります。また、様々な立場からニュースを発信することで多様な視点を持つことも可能になります。

 しかし、あまりにもそれが行き過ぎている、しかも「右派」を顧客にしているマスコミもそれはそれで中立性を欠いていて、何か釈然としないものがあることも事実です。しかし、テレ東が運営しているYouTubeチャンネルの「テレ東ビズ」は、どうもその様な現状のマスコミから一線を画しているという印象を受けます。「どっちもどっち」に陥ることもなく、「特定の立場からの肩入れ」をするのでもなく、「ただ、事実を大衆に分かりやすく説明し、独善的な啓蒙に陥らない真摯な視点」から解説しているのだろうな、という事を感じさせる内容になっています。

 それが顕著に現れたのが2022年2月に発生したウクライナとロシアの騒動でしょう。私は「テレ東ビズ」がウクライナ情勢について「ロシア側の論理(理解はするが共感するとは言っていない)」や、「国際政治や政権内部の事情を分かりやすく解説した、日本国政府の動き」などをコンテンツとして発表していることに、「ジャーナリズムとはこういうものなのか」と衝撃を受けました。今回は、それについて書いていきます。

 

「ロシア側の論理(理解はするが共感はしない)」を解説した38分の動画

 テレ東ビスが提供している動画のなかで、私が最も「すごい」と思ったのは、38分間にわたってアナウンサーが「ウクライナに侵攻する事を根拠づける、ロシア側の論理」を解説している動画です。参考文献を明示するだけでなく、話の構成や中立性、客観性なども担保されていて、「ジャーナリズムかくあるべし」というようなものを感じさせる動画でした。

 


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 内容についてはネタばれ(著作権侵害の可能性もあります)になるのでここでは詳しくは触れませんが、「ロシアの側に立ってみれば、ウクライナに侵攻するのも理解することは理解できる(ただし共感するとは言っていない)」というものでした。ここで重要なのは、「共感はしないが理解はする」という姿勢を打ち出していることでしょう。

 誰かが具体的で意図的な行動に出たとき、それにはその人なりの事情なり論理なりがあります。例えば誰かが刑事事件を起こしたとして、「そんな事をするのは人格が腐っているからだ」と非難することは簡単です。しかし、被告人の生い立ちや思想、環境などを丹念に調べていくと、「共感はできないが、やむにやまれぬ事情があったのかもしれない」という理解が得られることがあります。

 そして、この理解が大切なのだと思います。刑事事件の場合は、被告人の行動原理や動機を解明することで、後々の悲劇的な事件を防ぐことができるかもしれません。また、国家間の対立や企業間の競争であれば、「あの人たちはこういう論理で動いている」ということが理解できれば、対処の方法が出てきます。テレ東がYouTubeで配信している動画はまさに、「ロシア側の内在論理」を解き明かすものです。これを抑えることで、単に「ロシアの首脳は狂人だ」で終わることなく、「ロシアの首脳陣はこういう理屈で動いているんだな(共感するとは言っていない)」という理解を得ることができます。

 

 それは、今後のロシア側の行動を予測する上でも有用な材料になります。また、ロシア側とどのように「落としどころを探るのか」という道しるべになるかもしれません。そして、このような有用性を持つ情報を提供してくれているテレ東は「ただ情報を渡している」だけではありません。「情報をテレ東の内部なりに解釈し、有用性がある形に加工して提供している」という事になります。情報はただ集めるだけでは意味がありません。そこに一貫する論理や編集がなければ、有効性がある情報にはならないのです。また、その加工や編集に用いられる技術力も重要になります。

 例えば、「あるクラスのテストの点数をただ集めただけ」という生データがあるとします。問題はこれをどういう風に加工し活用するのかです。平均点を計算し、「怠けものと勤勉なもの」に分けて、怠けものにとりあえず画一的な補修を受けさせる目的でデータを加工することも考えられます。一方で、個人個人の国語・数学・英語の点数の相関関係、そして各教科の分野ごとの得点率を調べて、「どの科目が得意な人が、どの科目が苦手なのか。そして苦手科目を伸ばすには、各科目のどの分野を改善すればいいのか」を分析する目的でデータを加工することも考えられます。

 「怠けもの」に一律に補修を受けさせるよりも、「苦手科目や苦手分野をあぶり出したうえで、じゃあどういう風に学習方針を立てればいいのか」を考察した方が余程有益です。

 

 ジャーナリズムとテストの点数の分析は異なるかもしれませんが、「情報の加工」という観点からすれば同じものだと言えるでしょう。テレ東のロシア情勢への解説は、「ただ情報を集めただけ、もしくはそれを雑に加工しただけ」ではなく、「情報を丹念に集めたうえで、視聴者に分かりやすく、かつ正確に加工したもの」であるという印象を私は受けました。そのような「情報の加工の精緻さ」とでもいうものを感じた、他の動画についても紹介してみます。

 

「政治のしがらみ」を、「それはそれで大事なものだ」と解説する姿勢

 私がすごいと思ったもう一つの動画に、「侵攻」と「侵略」という言葉の違いについて丁寧に解説した動画があります。

 


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 具体的な内容についてはここでも触れませんが、「政治の世界では、ちょっとした言葉の違いでメッセージの内容が全く変わってしまう」という事を丁寧に解説しています。政治の世界は言葉の世界でもあります。言葉を少し間違えただけで「失言」として大臣を辞職する羽目になったり、国際問題に発展してしまうことがあります。その様な「些細な違いに敏感になる」というのは確かに下らないことかもしれません。しかし、そこにはただ「下らない」と切って捨てるわけにはいかない事情もありますし、この動画ではその「事情」についても丁寧に解説がされています。

 政治には様々な側面があることは確かですが、「利害調整、資源分配、対立の緩和、陣営の結束」といった側面があることは確かです。そしてこれらは高度なコミュニケーションを要求するものでもあります。その「高度なコミュニケーション」の方法を、政治の論理にしたがって解説しているのです。それは半端なコメンテーターが、「政治家は上っ面の言葉にだけこだわって下らない」と吐き捨てるのと比べて頭が何個分も抜けていると言っていいでしょう。

 

 実際に、高度なコミュニケーションが求められる状況では、私たち一般人も「些細な言葉や表情、しぐさ」などに異様なほど神経を使います。ちょっとだけ目を伏せる、表情を曇らせる、言葉を取り違える、こういった些細な違いが、人間関係の致命的な破局をもたらすこともあります。政治という一見「雲の上の世界の話」であっても、人間が動かしている以上は「コミュニケーションに気を配る必要がある」という事を、テレ東の動画は丁寧に解説しているのです。

 

 そして、その様な「しがらみ」にしか見えない、政治家同士の些細な言葉のやり取りに意義を見出し、「その裏には、こういうメッセージがあります」ということを解説しているのです。「政治家は上っ面にばかりこだわる」と言うのではなく、「政治家が言葉に異様に配慮する裏には、こういった事情があるのです」という解説は、まさに「啓蒙」といっていいものだと思います。

 

ジャーナリズムを素直に見直す経験になった

 この記事ではテレ東をべた褒めしましたが、私はジャーナリズムも国際政治も素人です。そのため、本職の専門家からすればテレ東の解説には間違ったところもあるのかもしれません。それに、私のこの記事も必然的におかしなものになっている可能性もあります。

 しかし、私はテレ東の動画をみて、「ジャーナリズムとは、こうも気高いのか」と雷に打たれるような衝撃を受けました。最近はマスゴミという言葉がはやっているように、ジャーナリズムの評価は地に落ちています。実際わたしも、マスコミが言うことをあまり信じられない、という印象を抱くことは少なくありません。それに、本業のメディア事業がズタボロの赤字な癖に、不動産収入などで何とか財務を維持し、「同人誌」と揶揄されるような政治的主張を繰り広げているマスコミも存在します。

 

 正直、私はジャーナリズムをなめていました。それに、最近の若い世代は「マスコミ」「ジャーナリズム」に魅力を感じていないどころか、一種馬鹿にしていることも確かです。コロナ前の学内合同説明会では、新聞社のブースは悲しいほどにがら空きだったそうです。マスコミは、「給料はいいかもしれないけど、就職すべきではない」と思われているのです。繰り返しますが、私もその様な風潮にのって、マスコミやジャーナリズムを馬鹿にしている部分がありました。

 しかし、テレ東の動画をみて、「真摯なジャーナリズムは、かくも気高く、有益なのか」と思いなおすことができました。一般人にはなかなか入手できない情報や、入手できたとしても膨大・煩雑すぎて手に負えない情報を加工し、分かりやすく解説してくれることがこうも有難いことなのかと考え直したのです。

 

 現在、マスコミの評判はけっして良いものではありません。凋落するテレビ、反ワクチンなどの非科学的でヒステリックな煽り、茶番じみた政権批判、どれをとっても「なんじゃこりゃ」というようなメディアがあふれています。しかし一方で、「情報を商売のタネにする」ということの特殊性・有用性は失われていません。一般人がアクセスできない情報、アクセスできても解釈ができない情報を、分かりやすく解説してくれるのがマスコミでもあるのです。

 確かにマスコミにも様々な問題点はあるでしょう。しかし、彼らは「情報のプロ」でもあるのです。商売である以上、大衆迎合的で非科学的な内容をまき散らすこともあるかもしれません。しかし、私たち一般人が「世界について知る」ためには、マスコミを通して情報を得るしかない、という事に改めて気づきました。

 もしかしたら、今の大学生にとって新聞社やテレビ局などのマスコミに就職することは悪くない選択肢なのかもしれません。「マスコミはインターネットに押されている」という事は確かです。しかし、インターネットは所詮素人の烏合の衆という側面もあります。やはり、プロにはかなわない部分があるわけです。マスコミに就職して、「情報のプロ」になることは、フェイクニュースが益々飛び交うであろう今後の社会において、「希少な価値を持つ人材」になることに繋がるのかもしれません。

 

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「無能に生まれた自己責任」という理不尽な十字架を背負っている、境界知能の人たちについて

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はじめに

 世間には「境界知能」と言われる方々がいます。境界知能とは、IQが71〜85の人たちを指す言葉であり、理論的に言えば社会全体の14%、つまり6〜7人に一人ほどの割合で存在しているとされています。境界知能の人については「理解力がどうしても低い。感情の起伏が乏しい。そしてそれらの特徴(欠点ともみなされうる)は、生まれつきの物であって親の教育などのせいではない」というような事が言われています。誤解を恐れず、そして差別的な表現を使うことが許されるならば、境界知能とは「先天的に無能に生まれついた人々」という言い方になってしまいます。

 しかし、世間はそんな事に配慮してくれません。「無能なのは勉強していない自己責任」「そんな事も理解できないのは努力不足」というような、無理解で冷たい対応をしてしまうそうです。実際に、私自身の過去の言動を振り返ってみても、今思えばあの人は境界知能だったのかもしれない、というような人々に冷たい言葉を発してしまったことがありました。

 そして、彼ら境界知能の人々はおそらく「知識社会の犠牲者」だと私には感じられます。文書や計算に基づく官僚的な手続きがいたるところに張り巡らされた知識社会というものは、文書や計算が先天的に苦手な人を排除してしまう性格を持っています。それはまるで、運動神経が悪い人を排除する学校の体育の授業のようなものです。もしくは、先天的にアルコールが飲めない人を排除する一気飲み文化のようなものでしょうか。いずれにせよ、深刻な社会問題ではないのかと思います。

 

 今回の記事では、そのような境界知能の方々が置かれている世界について考えていきます。彼らが背負う「無能に生まれた自己責任という十字架」が、どれほど重いものなのか、そして我々が彼にしている差別がいかに無自覚なのかを考えていきたいです。

 

境界知能という用語、そして彼らについて

 先述の通り、境界知能というのは、IQが71から85程度の人を示す用語です。ここで簡単にIQについてウィキペディアをもとに説明すると、IQ85〜115の間が平均知能とよばれ、約68%の人がこの範囲内に収まるそうです。また、IQ120以上の人々は全体の約15%ほどがいるそうです。つまり、IQ120以上というのは誤解を恐れずにいうと「6〜7人集めると、だいたいそのなかで一番頭がいい」ということになります。IQというものはテストと統計学を使って理論的に導かれた値という側面もあるので、IQの数字はざっくりと「世の中にいる人間のうち、その人の知能がどのへんにランクインするのか」を冷徹に指し示すことになります。

 そして境界知能というのは、上記のようにIQが71から85程度の人の事です。これは理論的にいうと14%ほどの割合です。つまり、境界知能と呼ばれる人は「大体6〜7人集めると、その中に1人いてもおかしくない」という割合です。学校の40人クラスでいえば、40人中6人から7人ほどいることになります。つまり、境界知能という仰々しい名前がついているものの、全然「その辺にいる普通の人」なわけです。

 実際、このような感覚は私の経験にも整合的です。公立小学校や公立中学校では雑多な人種が集まりますが、大体6人から7人に一人くらいの割合で「いま思い返せば、あの人は境界知能だったのかもしれない」という人がいました。彼らは別に普通の人です。ただ、勉強がどうにも苦手で、単純な四則演算であれば対応できるものの、「時間と距離の関係」や「方程式」という内容になると、かなり苦労していました。また、勉強が苦手なだけでなく、概念や仕組みそのものを理解するということが苦手なようでした。そのため、委員会や生徒会、部活などでの実務を任せると、何かと致命的なミスをやらかします。そして彼らと漫画やアニメ、ゲームの話をしていると、どうにもそれらコンテンツのストーリーを理解していないようでした。

 

 彼らは別に特に性格が悪いというわけでも、見るからに「障害者」という感じでもなく、友達付き合いをする分には全然気持ちよく過ごせる相手でした。ただ、もし将来この人と一緒に仕事するのであれば、それはちょっと遠慮したいな、という気持ちが湧き上がってくるというのも事実でした。そのため、当時は冷たい言動をとってしまったな、と今では反省することもあります。

 卒業後は彼らと特に連絡を取ることはありませんでした。やはりどこかで「話が合わない」という事をお互いに感じ取っていたのかもしれません。そのため、彼らが成長した現在どのような仕事をし、どのような生活を送っているのかは分かりません。しかし、私があるバイト先で出会った人は、ああ、この人は境界知能なのかしれない、と思わせる人でした。

 彼は運転免許を持っていて、仕事に関する手続きも(社員のサポートを受けつつ)出来ていたようなので、なんとか社会に適応できているようでした。しかし、借りた金を返さなかったり、交通ルールを無視したり、書類に書く漢字を間違えたりと、何かと問題を起こすトラブルメーカーでもありました。社員はそんな彼に何度も説教をしていたようですが、彼はどこ吹く風といった様子でした。思えば、彼は「将来の話」や「金銭関係という抽象的な話」がなかなか理解できなかったのかもしれません。

 それはいい悪いの問題というよりは、「そういう風に生まれついたのだから、そういう風に生きるしかない」というような印象を受けました。下戸に生まれついた人が、どれだけ酒を飲もうとしても飲めないように、彼は「抽象的な概念」という道具を、そもそも手に握ることができないようでした。

 

境界知能の人が見ている世界を想像してみる

 では、その様な境界知能の人たちが見ている世界というのはどのようなものなのでしょうか。彼らが見ている世界を想像するアプローチの一つとして、「自分の知能を下げてみる」というものがあると思います。例えば、徹夜をするとIQは10程度下がるそうです。つまり、IQ100の「平均的な人」が一晩徹夜をするとIQ90になる、とざっくり考えることができるわけです。一晩徹夜をするとだいぶ頭が動かなくなりますが、境界知能の方というのは「IQ100の人が一晩徹夜をした状態」よりも低い知的能力で日常を送っている、と想定することが出来そうです。こう考えてみると、彼らが直面している困難の大きさが多少なりとも想像できます。

 徹夜をすると「普段できているはずの計算や読み書きができない」というような状態になります。ゲームや漫画でも、普段はスラスラとこなせたり読んだりできる内容に何度も引っかかったり、普段だったら絶対にしないような間違いをしてしまったりします。徹夜の状態で仕事をして、普段はしないようなミスを連発してしまった経験があるひともいるでしょう。境界知能の人というのは、そのような状態をデフォルトで過ごしている、と考えることができるかもしれません。

 

 また、もう一つ別のアプローチとして、「周囲の頭がべらぼうに良くなる」という事を想像してみます。例えば、周りの人が全員IQ130以上になるような想像です。ここで例に挙げるのは東大生の世界でしょう。世間では「東大生の平均IQは120くらい」という言説もあるようですが、これはおそらく間違っていると思います。個人的な経験からいうと、おそらくIQ120というのは「東大に入れる最低ライン」であって、東大生の平均的なIQは130程度なのではないでしょうか。

 つまり、境界知能の人というのは、普通の人間が東大生の集団に放り込まれたようなものです。東大生という人種は異様に頭が切れます。東大の入試問題を見たことがあるのですが、「18歳の時点でこんな難解な問題を解ける人間に囲まれたら、自分は手も足も出ないな」という実感を覚えたことがあります。また、実際に東大生の人々は、数学や外国語、法律や会計学という「論理の塊」をサクサクと処理していきます。そんな彼らが「当たり前にできていること」を要求されるようになると普通の人は絶望的な思いを抱えるでしょう。境界知能の人々も、日々その様な絶望的な体験をしているのかもしれません。

 また、「普通に要求される知的能力のハードルが上がっている世界」を想像することも一つのアプローチなのかもしれません。小学校高学年で微分積分をこなすのは当たり前、生徒会などの手続きで行政なみの複雑な処理をするのが当たり前、スポーツのルールブックが六法全書なみに分厚い、などです。このような世界に東大生が放り込まれても何とかやっていけるかもしれませんが、私のような一般人が放り込まれたら対応できる自信がありません。このような、絶望的なまでの知能の格差をひしひしと感じさせる世界、これが境界知能の方々が見ている世界なのではないでしょうか。

 そして彼らはその様な世界の中で、「無能(に生まれた)ことそのものの自己責任」という、理不尽な十字架を背負って生きているのかもしれません。しかし、彼らはそれに対して効果的な反論ができないと思います。なぜなら先天的に知的能力が低いがゆえに、「言論の力で自身が置かれた不利な立場を表明していく」ということが難しいのですから。彼らは、「無能に生まれた自己責任という十字架」を、おろしてもらう機会をなかなか得られないのです。

 

知識社会である現代社会は、「先天的知能による差別」という隠された大問題を抱えている

 現代社会は知識社会でもあります。文書による統治が隅々までいきわたり、識字率や計算能力が社会的に重要な指標とされています。その様な形態の社会には良い面もあります。基本的に論理で物事が動くので、手続きシステムに信頼性が確保されているのです。法の支配とはいいますが、「誰がやったのか」ではなく「何をしたのか」という論理的で公平な処理が可能になります。これは、前近代の社会にはない素晴らしい点でしょう。

 しかし一方で、そのシステムを「理解できない」体質の人を排除するという面も持っています。実際に、就職試験では「適性検査」という名のもとに「知能検査」が行われます。これは、会社という官僚機構の仕組みを「理解できない」人を、最初から排除するという意味です。もしもその様な知的能力が完全に後天的に習得可能なのであればそれは合理的な差別と言えるかもしれません。しかし、境界知能の方はおそらくその様な知的能力を得ることができません。それは、下戸が酒に強くならなかったり、身長が低い人がダンクシュートを決められなかったりするのと同じでしょう。

 

 境界知能という物は先天的な要素です。また、知能というのもかなりの程度先天的に決定されることが示されているそうです。現状、このような先天的な要素で「選抜」することは社会的に許されています。しかしそれは、まごうことなき差別なのではないでしょうか。差別とは、生まれついた身体的特徴や生育過程で培った信念で理不尽な区別をすることだ、というのが一般的な定義でしょう。しかし、この定義では「精神的な領域」が無意識に排除されています。「外面ではなく、内面を見るのだ!」という(素晴らしいとされる)言葉には、「内面は後天的に身に着けられる、選択可能なものだ」というニュアンスが潜んでいます。

 知能も、「後天的に伸ばすことができ、その様な意味では努力の結果であり自己責任で、選択可能なものだ」という風に一般的に解釈されています。しかし、おそらくそれは誤った理解でしょう。知能はある程度先天的に決定され、「外面」とおなじように「選択不可能」な物なのです。知能によって人間を区別することは、差別そのものだと私は思います。

 そして、現代はこの「知能差別」があまりにも蔓延しているので、それを自覚することすら難しいです。そのような「区別」は当然のこととされています。しかし、歴史的にみて「当然とされる区別」は、後世になると「理不尽な差別」だと糾弾されることになります。奴隷と自由民、貴族と平民、人種などです。知能による差別は、後世になるとおそらく糾弾されるでしょう。

 しかし、知能による差別がなければ社会が回らないという事も事実です。官僚的手続きが至るところで求められる現代社会では、ある程度の知能というものが最も要求されます。知能差別を撤廃して境界知能の方を組織運営の要職につけてしまったら、かなりの人々が困ることも確かです。この「知能差別」という問題は、社会構造や社会の根底の価値観が大きく変わらない限り、なかなか正面から取り扱うことは難しいのだとも思います。

 

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いじめっ子に人権教育をしたら、「人権侵害者は〇す!」というイジメが発生した

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はじめに

 スキャンダラスないじめ事件や犯罪が話題になると、「人権教育を適切にしていればこのような悲劇は防げたはずだ!」という意見が出てきます。確かにそうかもしれないのですが、人権というものが「人工的な概念」である以上、人権を適切に教えるというのはなかなか難しいものがあるのかもしれない、と私は思ってしまいます。

 「人権」のほかに「自由と平等」「法の支配」のように、現在の社会では人工的な概念に支えられているものが多いです。それらは人間の獣性とでも言うものを理性によってコントロールし、個々人や共同体に幸福をもたらす、というような建付けで導入されているようです。

 

 確かにこのような人工的な概念は私たちの生活を支えてくれるものではあります。それに、人間の獣性や暴力的な利己心を抑え、健全な社会を築くための土台になってくれます。しかし、じゃあだからといってこのような「人工的な概念」を単に教室で教えれば「皆が人工的な概念を適切にインストールし、社会に平和と幸福が訪れる」のかというと、なかなか難しいものがあると感じています。

 「人権という概念」が「概念」、つまり「道具」である以上、それは結局「その道具を使う人の素質や思考」に大きく依存します。使う人が獣性に基づいて「人権という道具」を使ってしまえば、悲劇が起きてしまうのです。それはまるで、包丁や工具といった「人間の生活を豊かにするはずの道具」が、使う人によっては犯罪に利用されるようなものです。

 まあ、「人権という道具の適切な使い方を教えてこそ、適切な人権教育といえる」というのはあるかもしれません。しかし、話はその様な理想論だけではうまくいかないと思います。人間が結局動物であり獣性を抱えている以上は、なかなか理想論だけではいかない部分も多いのです。今回は、そんな話について書いてみます。

 

人権教育に感動するいじめっ子ヤンキー

 私が在籍していた中学校では、いじめっ子のヤンキーがいました。彼はその場の気分で人を殴り、そして口が達者なので教師とも上手く関係を築いているという、なかなかにタチが悪い存在でした。しかも面倒くさいことに極端な気分屋なので、その場その場で言うことがコロコロ変わります。彼の気分を読み間違えると理不尽な鉄拳が飛んでくるわけです。

 気分屋ということで、彼は思考力に問題がありました。表面的なIQは決して低くはないようでしたが、とにかくメタ認知力が低かったのです。自分の過去の行動と現在の行動の一貫性を保つということや、自分の言動の矛盾点にとにかく鈍感なのです。しかも自分の発言を覚えていないので「これやっといて」といって他人をパシった後に、「そんなことをしろとは言ってねえ!何勝手にやってるんだよ!」と怒り始めるわけです。まあとにかく、面倒くさい独裁者でした。

 そんな彼の圧政にひたすら耐えるだけだった教室だったのですが、ある時転機が訪れました。「人権教育」という授業にそのヤンキーが感動したのです。人権以外にも、自由や平等、法の支配、平和憲法など、そのヤンキーは「近代社会を構成する美しい原理」にいたく感動した様子でした。教師に食い入るように質問していた彼の姿は、暴虐少年が「改心」したのかのような、とても健気で美しいものでした。

 

 人権教育が終わった後、ヤンキーは急に優しくなりました。「みんな平等だ」「君には人権がある」のような打って変わった美しい言動をするようになり、今までイジメ倒してきた哀れな庶民たちにも慈愛の心をもって接するようになりました。「これで平和が訪れる」という期待がクラスに広がりました。確かに、人権教育の後の数日間は平和そのものでした。彼は人権や自由や平等という概念を学び、優良青少年に生まれ変わりました。

 しかし、その平和も長くは続きませんでした。次第に彼は「人権」という正義のこん棒を使って、人を殴り始めたのです。かれは「人権の何たるか」はかろうじて学んだようですが、「人権侵害のなんたるか」はまったく学んでなかったのです。そこから悲劇が始まりました。

 

人権という「正義」を人を殴る道具として使い始めたいじめっ子ヤンキー

 人権教育を受け、適切な人権規範を身に着けたはずのヤンキーが、どうしてイジメを始めてしまうのか。理解に苦しむ読者もいるかもしれませんが、人間とは正義を他人を殴る道具として使ってしまうものです。

 彼は、教室にある「些細な人権侵害」に目を光らせるようになりました。例えば、哀れな庶民である我々陰キャラが互いに軽口をたたき合ったとします。「おまえチビやな」「そういうお前こそデブやな」というような、互いに対等にいじりあってコミュニケーションをとるといった感じです。まあ見た目に関する軽口をたたくのはいかがなものかとは思いますが、互いにちょっとした欠点をあげつらって本人同士が面白がる、というのは楽しい雑談の一形態ではあります。

 しかし、人権の擁護者にして憲兵隊長のヤンキーはそのような「些細な人権侵害」を見逃してはくれません。「お前ら人権侵害をするな!!」と怒り心頭になり、陰キャラたちに鉄拳を下すのです。そして彼には、軽口という軽度な人権侵害よりも、人を殴るという文字通りの暴行の方が「人権侵害としてヤバくね?」という感性を持っていないようでした。

 

 むしろ、「些細な人権侵害すらも実力によって取り締まることで、本当の人権が実現するのだ」というような、どこかの大国が戦争の口実にしそうな理屈をひねり出してきたのです。こうして、教室は再び彼による圧政に支配されました。少しでも「人権侵害」とみなされる言動をすれば、こちらの人権が文字通りはく奪されてしまうのです。

 彼は本気で「人権を守りたい。人権を実現したい」と思っていたのかもしれません。しかし、人権を「正義という名のこん棒」として人を殴る道具として使っていたのは事実です。「正義を所有した人間は暴力的・嗜虐的になる」というのは最近のインターネットでは半ば陳腐になった表現ですが、彼はまさにこれを体現していたわけです。私はほとほと、「正義って意味ねえじゃん」と思ってしまいました。

 

 まあこの場合は、「人権」という概念よりも「正義をこん棒にしてしまった彼の行動」こそが批判されるべきかもしれません。しかし、「人権」という概念が「人を殴る道具」に利用できてしまうというのは「人権という概念に内在している一種のバグ」であることは確かでしょう。まあそれでも、「神の意志」「前世の因縁」「天の導き」「マルクスの理想」などの概念よりはまだ「バグの程度がマシだと西側諸国の人は思っている」からこそ、「人権」という概念は西側社会に実装されているのでしょう。

 とにかく、そんな人権警察と化した彼による暴力は苛烈を究めましたが、しばらくすると収まりました。彼が人権を真に理解したからではありません。単純に人権に飽きてしまったからです。まあそれでも、彼の暴力性には何も変化はありませんでした。彼は「人を殴らない」という理性よりも、「人を殴りたい」という獣性で動いていたようです。

 しかし、その様な「理性の皮をかぶった獣性」は、誰もが心当たりがあるかと思います。口ではいいことを言いながら、後から振り返れば自分の三大欲求や嗜虐心、利己心に突き動かされていただけだった、と反省したような経験です。人間というのは結局そういうものなのかも知れません。

 

「理想」が「地獄を出現させる」ことは歴史上もよくあること

 月並みな言い方になりますが、理想というものはえてして地獄を出現させるものです。共産主義政権の独裁者はまさにそのような事例ですし、冷戦初期のアメリカでのアカ狩りや、日本でいう大東亜共栄圏です。大東亜共栄圏は流石に露骨な支配欲をむき出しにしていますが、それを素朴に信じて、道徳に満ちた八紘一宇の夢を抱いた青年将校もいたわけです。

 また、身近な例でいうとブラック企業の経営者が「社会に幸福をもたらす」というスローガンのもとで、社員を過労死するまで使い倒す事例もあります。これは、「君はもっと働く必要がある。なぜなら君は社会にまだまだ幸福をもたらしていないからだ。さあ、睡眠も食事も削って、社会の幸福のために働きなさい」というロジックが出来てしまうからです。

 理想がこのような地獄を生み出す理由の一つには、その理想を「道具として利用する」人間の悪徳に着せられるべきでしょう。しかし、それにしては理想を圧政の道具にする人があまりにも多い。おそらくこれは、「理想」というシステムが本来的にはらんでいる仕様なのかもしれません。

 

 第一に、理想、特に美しい理想というものは絶対に実現されることはありません。理想というものは形而上(神とか仏の世界)の概念か、リソースが無限にあることを前提にして組まれています。しかし、人間は形而下(俗世、現実)に生きる存在ですし、寿命がある以上リソースも限られています。このギャップがバグの温床となり、「理想を実現できていないお前は〇ね!」「理想の実現のためにはお前を〇す!」というような、地獄を出現させるのでしょう。

 第二に、理想というものは「人間が考慮する要素を減らしてくれる」という機能が存在します。例えば「愛国心」という理想を持ってくれば「戦場で殺される敵兵の悲しみ」という要素を無視することができるようになります。「理想の実現」という要素が重視されるあまり、他の要素を簡単に踏みにじれるようになるのです。

 

 このように、理想というものは非常に厄介な性質を持っています。じゃあ、人権や愛国心、幸福という理想を否定すればよいのかというと、また話が変わってきます。その様な理想が無ければ、文字通り人間は「動物」になってしまい、獣性を爆発させた万人の万人に対する闘争状態、文字通りの生き地獄を出現させてしまうでしょう。そのような最悪の地獄が出現してしまうくらいなら、理想でそれなりの地獄にセーブしておいた方がまだましなわけです。

 ヤンキーの話から、大言壮語にまで至ってしまいました。今回の記事はこのへんで終わりにしたいと思います。ツイッターもやっているので、是非フォローをお願いします。

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『無職転生』とかいう、男オタクの理想を詰め込んだ作品

はじめに

 2021年に話題になったアニメの一つに、『無職転生』というものがあります。童貞で引きこもりの30代無職が事故で死亡し、剣と魔法の異世界に転生して活躍する、というお話です。いわゆる異世界転生ものなのですが、そんじょそこらの異世界転生ものとは一線を画しています。アニメ版の作画は神がかっていますし、ご都合主義展開ではありつつも主人公は何度もピンチに陥ります。

 

 ただこのアニメ、女性にどうも受けが悪いようです。実は中国でも無職転生は放送されていたのですが、「女性を馬鹿にしている!」という声や、「そもそも無職に共感できない」という批判により大炎上しました。人の海である中国での炎上だったので、数千万人、下手をすれば一億人以上の人間がこの炎上で大乱闘を繰り広げたらしいです。中国のスケールの大きさには驚かされますが、本題はこの『無職転生』というアニメはあまりにも「特定層の趣味嗜好」に刺さり過ぎているために、「それ以外の層」からは嫌悪感を持たれてしまうようだ、という事です。

 

 私も実際に無職転生というアニメを見て、ネット上で公開されている原作も全て読んだのですが、確かにこの作品は「男オタクの理想が全部乗せでぶち込まれている。滅茶苦茶面白い」という感想を抱きました。そして同時に、「この作品に対して嫌悪感を抱く人も多いだろうな」という感想を抱きました。今回の記事は、そういった内容について書いていきます。

 

無職転生』は、少年漫画の要素(ハーレム含む)を全部乗せしている

 無職転生のストーリーを改めて説明すると、無職の童貞が異世界に転生して頑張るという、よくある異世界物です。しかし、その異世界で師匠や仲間、親友、家族との信頼を築き上げ、困難に立ち向かう人間のドラマがあるという点では、いわゆる単純な「俺TUEEEE」モノとは一線を画しています。主人公は何度も命の危機に陥りますし、何度も傷つきます。

 そういった展開の中で、「友情・努力・勝利」的な、少年漫画の王道とも言えるストーリーが紡がれていきます。しかもそれに加えて、主人公は複数人の美少女と深い関係性を築いていきます。要はハーレムものでもあるわけです。つまり、少年漫画にある「戦い」「努力」「ファンタジー」「性欲」の全ての要素を網羅しています。それでいてストーリーは破綻していない上に、適切な感情曲線(主人公の気分の浮き沈み)が描かれているので、面白くないわけがない、といった作品です。

 そのうえ世界観の設定も凝っていて、多種多様な種族が登場して群像劇の様相を繰り広げます。また、剣と魔法の設定も練られているので、「どういう工夫をしながら戦いが展開するのだろう」という、王道のバトル漫画的な楽しみ方もできます。そして主人公はその様なストーリーの中で着実に精神的に成長していきます。時には自分の未熟さを恥じ、時には老練に振る舞いと、作品を読んでいてまるで自分も成長しているかのような錯覚を味わえるのです。

 

 つまり、「少年漫画の面白い要素を全部乗せした上で、ストーリーに破綻がない」という、究めて完成された作品なのです。その様な少年漫画的要素のおかげで話の流れ自体もシンプルなため、混乱することもありません。とにかく面白いわけです。

 しかも、アニメ版は作画が神がかっています。中世ヨーロッパ風の異世界を丹念に描いているだけでなく、アジア的な都市や中東的な都市、うっそうとした原生林までも丁寧に描かれています。戦闘シーンもかなり気合が入っていて、登場人物たちが生き生きと躍動しています。

 

 とまあ、無職転生をべた褒めしたわけですが、この作品には大きな欠点が存在します。それは「とにかく陰キャ男の理想が詰め込まれている」という点です。主人公は強いし賢いしモテるし、そして根が陰キャなのでキモオタにとって感情移入がしやすいです。このように陰キャ男を喜ばせる内容が濃厚に詰め込まれているために、女性にとってはシンプルに「気持ち悪い」という感想を抱かれることも少なくないようです。

 つまり、一種の「ご都合主義」でもあるわけです。そのご都合主義に嫌悪感を持つ人が一定数いることが表面化したことが、中国での炎上騒動でしょう。しかし、やっぱり根強いファンがいるからこそ、作画に気合が入ったアニメ化もされるのだと思います。つまり、あまりにもご都合主義が完成しているために、「滅茶苦茶面白いか滅茶苦茶気持ち悪いか」という両極端な反応が出てくる作品の要です。単純に「完成度の低いご都合主義」であれば、ここまで嫌悪感を催すことなく無視されるでしょうから。

 しかし、だからといって「ご都合主義」は悪いものなのでしょうか。むしろ人間がフィクションを楽しむ理由は、今ここにある現実の世界とは異なる別世界を覗いてみたい、という欲求を満たしてほしいから、という物はあると思います。ここで視点を変えて、「物語ってのはそもそもご都合主義じゃないと面白くないのではないか」というテーマに移っていきたいと思います。

 

よく考えたら、「物語」ってご都合主義じゃないと面白くない

 物語というものは基本的にご都合主義的です。日本最古の長編小説である源氏物語だって、主人公である光源氏にとって都合がいい展開が(基本的には)続いていきます。もちろんピンチになることはあるのですが、それでも何だかんだピンチを乗り越えることも多いわけです。

 しかも、源氏物語は「光源氏にとって都合がいい」だけではありません。主要読者として想定されていたであろう女性たちにとっても都合がいい、「少女漫画的なご都合主義」にもあふれています。少女漫画のご都合主義といえば、お金持ちの御曹司などの社会的地位の高いイケメンが、少々モラハラ的に主人公の女の子を口説いてくる、というものです。

 光源氏はトップクラスの貴族という「社会的地位の高い人物」である上に、神々しいまでのイケメンで、スポーツや文化的才能にもあふれています。その様な「ハイスぺ」が、様々な女性を(モラハラを交えつつ)口説くわけです。当時は一夫多妻だったこともあり、「他に奥さんがいるハイスぺイケメンに、女の子が口説かれる」という展開も納得感があったのでしょう。とにかくご都合主義的です。

 

 そもそも、ご都合主義ではない物語など誰も読みたくないんだと思います。「こうあってほしい」という願望が反映されていなければ、わざわざ何時間もかけて文章や画面とにらめっこをするわけがありません。物語とはご都合主義で無ければ成り立たないわけです。

 中には、主人公がひたすらに理不尽でつらい目に合うという物語もあります。最近(2022年2月~3月時点)でいうと、『タコピーの原罪』という漫画作品でしょうか。しかしこれも、「多くの人が実は見てみたかった地獄の世界」を忠実に描いているという意味でご都合主義的です。どんでん返しの作品や、バッドエンドの作品であっても、「うすうすこういう展開を望んでいた」というようなストーリーでなければ、「ストーリーが破綻している」と言われるわけです。

 逆に、現実というものはご都合主義を簡単に超えてきます。大谷翔平藤井聡太の活躍は「リアリティがない」ものです。もしも漫画や小説で彼らのようなキャラクターが出きたら読者は興ざめしてしまうでしょう。もしも彼らのようなぶっ飛んだ人物を登場させたいならば、「作品中にある他の要素との整合性」を作る必要があります。その「整合性」こそが、「ご都合」だと思うのです。

 

 例えば、リアルな野球漫画で大谷翔平のような選手を登場させるのはリアリティがありません。しかし、『ドカベン』のような荒唐無稽さを残している漫画であればまだ整合性があります。もっと言うと、『ボボボーボ・ボーボボ』のように、破綻の一歩手前まで言ってしまっているギャグマンガであれば、大谷翔平のような「リアリティがない人物」も登場させることができます。

 フィクションというものがあくまで「人工物」である以上、そこには「人工性」がなければいけません。あまりにも現実的だと淡々としすぎていて面白味がないか、逆に展開がぐちゃぐちゃすぎて読者がついていけないかのどちらかでしょう。人工物としてのフィクションを支えるのが、「ご都合主義」の役目なのだと思います。

 そして、あくまでそのご都合主義が露骨になり過ぎないように、主人公をピンチに陥れたり、失恋や死別といった悲しみを背負わせるのだと思います。フィクションがあくまで「観客」を必要とする以上、「観客の期待を程よく裏切りつつ、基本的には観客の期待を満たす」ことが求められるのだと思います。そしてそれは結局、一種のご都合主義なのだと思います。

 

誰かの性癖に刺さるということは、誰かの嫌悪感を刺激するということ

 話を無職転生に戻しましょう。無職転生とは、「男の願望」というものを非常に都合がいい形で取り入れた作品です。ただ、そのご都合が上手く組み合わさっているため、単純な「俺TUEEEEE」とは一線を画しています。しかしその一方でその組み合わさり方があまりにも整っているために、「普通に気持ち悪い」という感想も出てくるのだと思います。

 しかし、「誰かの好み(性癖)に突き刺さる」という事は、逆に「誰かの嫌悪感を刺激する」という事でもあると思います。私は幼少期に『マイメロディ』や『プリキュア』などの「女子の理想を突き刺した作品」に、どうしようもない嫌悪感を覚えることがありました。なんとも言えないのですが、とにかく気持ち悪かったのです。

 一方で、女子のほうは『戦隊ヒーローもの』や『ポケモン』といった、(基本的に)男子向けの作品を嫌っていたようです。それは、「男子の理想を突き刺している」からこそ、女子にとっては嫌悪感の対象だったのかもしれません。

 

 フィクションが持つ「誰かの好みに深く突き刺さる」という要素を機能的に考えると、「心理状態を極度に操作する」という道具の面が出てきます。つまり、フィクションとは心理状態を操作する道具として利用できるわけです。これを悪用すればプロパガンダになるわけですが、それについてはここでは置いておきます。

 そして、道具というのは使う場面によっては有効で安全である一方、別の場面では不適切で危険ですらあります。まな板の上で肉を切る上では包丁は役立つし安全ですが、チェーンソーを使おうとすると危険なだけです。逆に、木を切るにはチェーンソーが有効ですが、包丁では文字通り刃が絶たないうえに「無理やり硬いものを切ろうとして刃が滑る」ために危険ですらあります。

 

 物語も、これと似たようなものだと思うのです。「誰かの心を動かすには有効な道具」である物語も、「別の誰かの心を動かすには効率が悪いだけでなく、その人に嫌悪感をもたらす」ものだとも思います。むしろ、「機能としての物語」が完成され、その機能の有効な範囲が明確である場合は、その範囲から外れている読者にとっては「何が面白いのかまったくわからない。むしろ気持ちが悪い」と感じられるのだと思います。

 つまり、『無職転生』という作品は「キモオタ」の心に対しては有効な道具であったものの、「女性の多く」にはあまり有効でない道具だった、という事なのだと思います。それは逆に言うと、『無職転生』の道具としての完成度が高かったからこそ、有効な範囲を外れてしまうと機能不全に陥ってしまうという事なのでしょう。

 

 ということで、今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、できればフォローをお願いします。

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努力とは自己否定であり、それに耐える精神的安定を必要とする

 

はじめに

 努力をしなさい、とはよく言われます。確かに努力は大切でしょう。しかし、努力する、とは簡単に言える一方、実際に努力を行うことは難しいものです。「じゃあどうすれば努力できるのか?」というハウツーや、「努力に耐えるためには何が必要なのか?」ということについては、なかなか教わる機会がありません。

 よく言われることが「努力を努力と思わず、その物事を楽しむといい」という事です。確かにこれは一理あります。私の経験でも、努力を努力と思わずに楽しむことができたときの方が、課題に対して前向きに取り組めて成果を出すことができました。

 しかし、一方で世の中には「努力を苦しいと思いつつも、努力を歯磨きのように続けられる人」が存在することも確かです。もうこれは精神論でもなんでもなく、「努力するための才能」が根本から違うとしか思えません。彼らのように努力しようとしても無理があります。

 

 例えば、小説家の黒木亮さんは大学生時代に英語を毎日30分勉強していたそうです。これだけなら簡単そうなのですが、実は話は違います。黒木亮さんは大学時代に箱根駅伝に出るほどの猛者だったのですが、箱根駅伝に出たその日も30分の英語学習を欠かさなかったそうです。駅伝の練習や試合で疲れていたであろう日でも30分の勉強時間を忠実にやり抜けるというのは、精神論だけでは説明できない「何か」の存在を感じてしまいます。

 その「何か」には、体力や精神力、そもそも努力の才能といった要素があるのは間違いないでしょう。そして「向上心の強さ」というものがあるのもおそらく否定できません。しかし、この「向上心の強さ」というものが案外曲者だと思います。

 「向上心が強い」という事は逆に言うと「現在の自分を否定する」という事になります。この「現在の自分を否定する」という事に耐えられるだけの精神的安定が、努力には不可欠の要素だと思うのです。今回は、そんな話について書いていきたいと思います。

 

「努力の才能」というものは存在する

 「才能か努力か」というのは人間を悩ませるテーマです。しかし、そもそも「努力にも、努力するという才能が必要になるのでは?」という事は、怠惰な読者には感じられたことがあると思います。

 例えば、毎日3、4時間の睡眠で全快できるという、ショートスリーパーの体質などです。一般的な人間は全快するためには8時間の睡眠が必要になりますが、3,4時間睡眠で稼働できる人は一般的な人よりも4,5時間の余裕を確保できます。また、6時間で全快できるという人も、一般人よりも2時間の余裕が確保できます。

 そのような先天的なショートスリープの才能があれば、結果的に「努力の才能」を持っていると言えるでしょう。なぜなら努力には時間が必要である以上、睡眠時間を必要とせずに努力時間を確保できるというのは根本的な部分で優位性を持っていて、結果的に「努力の才能がある」と言えます。

 

 「全快に8時間以上かかる人が、睡眠を削ってでも努力する」というのは選択肢の一つかもしれません。しかし、それは長続きはしません。結果的に体を壊したり、能率が下がったり、昼間の本業が寝不足でおろそかになったりと、とにかく持続性がありません。数年程度はその様な努力をしてもいいとは思います。しかし、十数年、何十年と「睡眠を削る」という努力をしていると、体を壊すか、最悪の場合過労死してしまいます。

 努力には持続可能性が大切です。なぜなら「より良い将来」を実現するために努力をする以上、「将来を悪くしてしまうような努力」は、根本的に間違っているためです。「将来のキャリアを考えて、睡眠を削って努力をしていたら、病気になってしまいキャリアを失いました」では、もはやそれは努力というより愚行になってしまいます。

 

 また、「日々の体調が安定している」というのも努力の要件になります。三日に一回は風邪で体調を崩します、というような状態ではそもそも努力のしようがありません。実は私は発達障害を抱えていて、そのおかげで睡眠障害に悩まされていました。上手く寝れずに「脳みそが痛い(頭が痛いとは違う、脳みその回路が焼け切ってしまったような感覚)」状態が五日に三日くらいは来ていました。現在は服薬で改善されているのですが、「体調が安定しているって、なんて快適に努力ができるのだろう!」と自分でも驚いています。

 体調が安定しなければ、日々淡々と努力を積み上げるという事は難しくなります。「昨日はできたことが今日はできない」という状態が続くと、そもそも積み上げることができなくなるからです。

 そして何よりも、努力には「向上心の強さ」というものが必要になります。現状に満足していないからこそ、現在の自分を否定して努力を積み上げることができるからです。しかし、これが曲者だと思います。現在の自分を否定するというのは、精神的に非常に辛いことでもあるからです。

 

 そんな「自己否定」を自分に向けても、「自分という存在」が脅かされないという安心感がどこかになければ、努力を続けることはできません。自責思考は向上心に必要ですが、自責に耐えきれないとうつ病などになってしまいます。

 

「絶え間ない自己否定」という「向上心」を持つためには、精神的安定を必要とする

 「努力には自己否定が必要になる」というのは一見わかりにくいかもしれません。しかし、努力というものは「現状維持に飽き足らず、今よりも良い将来を手に入れるための投資」です。つまり、現在を否定して犠牲にし、将来のために資源を投資する行為です。「こんなにダメな自分を変えたい」「自分に足りないものを補いたい」というタイプの努力は、まさに現在の自分に対して否定的な思いがあるからこそできるわけです。

 まれに「現在の自分にも満足している。しかし、もっと上の世界を見てみたいから努力する」という動機で努力できる人もいるかもしれません。その様な人はある意味で特殊体質だと思います。現状で満足できているのに、なぜわざわざ我慢してまで努力をしないといけないのでしょうか。その様な気持ちになって、努力を放棄して怠惰をむさぼる方が普通ですし、ある意味人間臭さを感じさせて親しみが持てます。

 普通の人間が努力できるときは、現在の自分に満足していない、つまり現在の自分を否定したいときだと思います。そして問題になるのが、この「現在の自分への否定」に耐えられる精神的安定があるのかどうか、という事です。

 

 「現状のダメな自分」をひたすら見つめることは精神力を必要とします。人間は結局自分がかわいい生き物ですから、醜い自分の姿を見続ける事は簡単に耐えられるものではありません。努力をせずにひたすら憂さ晴らしの暴言を吐いているような人というのは、現状の自分の醜さを直視出来ていないためにそうなっているのだと思います。自分の醜さから目を背けるために、社会の醜さばかりを見つめて文句を言っているわけです。

 人生が順忠満帆にいき、大人になっても努力を積み重ねていたような人が急におかしくなる時があります。致命的な挫折をしてしまったり、絶え間ない自己否定による努力に耐えきれなくなったからかもしれません。そして、「自分の醜さ」を直視できる精神的安定が失われてしまうと、立て直すことは容易ではありません。酒やバクチ、性的快楽、違法な快楽に溺れている自分を直視できずに、ひたすら精神的におかしくなってしまうのでしょう。

 「現状の欠点だらけの自分、つまり醜い自分」を淡々と見つめられるからこそ、自分に足りない部分をあぶり出すことができます。また、自分を客観的に観察することで、「この分野はどうにも自分には向いていなさそうだから、他の分野で努力をしよう」という戦略的な判断が可能になります。自分を淡々と客観的に見るためには、意外と精神的安定が必要になるのです。

 

 ではなぜ、精神的安定があれば現在の自分を否定するような芸当が可能になるのでしょうか。それは、「現在の自分が否定されても、自分の人格や人生そのものが否定されるわけではない」という自信、つまり精神的安定に支えられているからです。自分に確固たる自信があるからこそ、「現在の自分」という小さなものが否定されても、「将来の自分」という大きなものに向かって努力を重ねることができます。

 中にはコンプレックスと精神的不安定を燃料にして努力をする人もいます。周囲にバカにされるのが嫌で、自分が嫌いすぎて、とにかく見返したかったから努力をした、といった具合です。しかし、このような努力だけを続けていることは将来性がないと思います。根本的な部分で自分に自信がないせいで、周囲との人間関係でトラブルを起こしてしまうからです。

 

 努力をしてスキルやセンスを身に着けたとしたら、その先にあるのは人間関係です。スキルやセンスの切り売りというものは、結局は「利用される立場・人の下に立つということ」でしかありません。スキルやセンスの切り売りを越えて、「人の上に立つ」ということができるようになるためには、人間関係をうまくこなす必要があります。

 そしてその際、自分への自信の無さから努力していたタイプの人は、人間関係でトラブルを起こしてしまいます。そうなると、元々精神的に不安定だったうえにトラブルによって更に精神的に不安定になってしまいます。「現状の醜い自分」に耐えきれなくなるので、破滅はすぐ目の前にあります。

 コンプレックスや自信のなさを燃料に努力をしているような人も、いつか「自分に自信を持つ」ということが必要になると思います。そうやって精神的安定を得て、初めて健全な努力ができるようになるわけです。

 

では、精神的安定を手に入れるためには何をすればよいのか

 では、どうすれば精神的安定を手に入れて「健全な努力」をすることができるようになるのでしょうか。私なりの3つの提案をして、この記事は終わりにしたいと思います。一つ目は、「自分の人格」と「自分の能力や思考は別物だ」と考える、ということです。

 努力における自己否定をあくまで「現在の自分の能力や思考」に向けて、「自分の人格そのもの」は否定しない、という考え方です。こうすれば、現在の醜い自分を直視しても、「その醜い自分とは別に、自分は高潔な魂を持っている」というような二重思考ができるようになります。「現在の自分」と「自分の人格そのもの」をダブルスタンダードで捉えるというわけです。

 こうすれば、現在の自分を否定するような努力であっても、自分そのものを否定するわけではないので精神的安定を得ることができます。ただ、「じゃあ自分そのものって何?」という哲学的な問いに陥ってしまうのは避けた方がいいでしょう。その様な「自分そのものを問い直す」という行為はあまり幸福にはつながりません。どこかで思考停止をして、「自分は自分だから自分だ」という循環論法で自己暗示をすることが必要になります。

 

 二つ目の提案は、「単純に身体的健康を保つ」ということです。精神と身体は互いに影響を及ぼしているので、「身体」を保つことで「精神」を支えるという事になります。運動をし、食事のバランスに気を付け、睡眠を適切に取ることで体調が安定し、精神的にも安定することができます。

 実際に、炭水化物ばかりの食事をとっていると、私はどうにも気分が沈み込んでしまいます。野菜や肉もしっかりと食べて身体的健康を保つことが、どうやら精神的安定に繋がるようです。また、できれば運動や睡眠も適切に行うことができたときは、やる気があふれてきます。「今の自分はダメだけど(現在の自分への否定)、それは別に自分そのものが悪いわけではない(精神の安定)。むしろ欠点を直して将来の幸福を得よう!(将来への意欲)」という風に、前向きに考えることができるようになるのです。

 

 三つ目の提案は、「人間関係を大切にする」ということです。家族、友人、恋人など誰でもいいので「貴方が貴方でいてくれるだけでいい。貴方は貴方だ」という、無償の全肯定をしてくれる人を大切にする、というわけです。そして、「貴方のことは大切に考えている。だからこそ、その欠点は直した方がいいと思う」というような、建設的な全肯定をくれる人と仲良くするわけです。

 適切な自己愛というものは自分の内側からだけでは支えることはできません。周囲の人間に承認され、愛されるからこそ成り立つものです。そしてその様な愛を与えてくれる人を大切にして、その様な愛を裏切りたくないと思うからこそ、「現在の自分の欠点を直すために努力をする」ということが可能になるのだと思います。

 

 いずれにせよ、「現在の自分を適切に憎み、将来の自分や本来の自分を適切に愛する」ということは簡単にできるわけではありません。私自身も、自分ができているかと問われれば、「出来ています!」と即答できるわけではありません。しかし、競争社会であり、努力が求められている現状では、努力を積み重ねる必要があるわけです。逆説的ではありますが、厳しい競争に勝つためには、暖かい居場所を自分の中に確保する必要があるわけです。人間って難儀な生き物ですね。

 

 それでは、今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、出来ればフォローをお願いします。

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勤勉を捨てた怠惰を取り入れることは、日本を救うのではないかと思った話

 「インプットとアウトプットのバランスを取ることが大事だ」とは、多くの本に書かれています。このような、正反対の2つを交互に取り入れることは何かにつけて重要です。そして「緊張とリラックスのバランスを取ること」も重要だと言われています。しかし、この記事では少し言葉を変えて「勤勉と怠惰」という軸から考えてみたいと思います。なぜこのようにわざわざ言葉を変えるのかについては、この方が「視野を広げる」という観点では有効だと感じているためです。

 

 「緊張とリラックス」では、まだリラックスできていないと言うか、「何かの目的のためにリラックスをしている」と私は感じています。「先週は忙しかったから、今週は旅行で気晴らしをしたい(旅行でリラックスするのも仕事のため)」、「今日は疲れる日だったから、今夜はお酒を飲む(お酒でリラックスするのも仕事のため)」といった感じです。あくまで「仕事や勉強」という目的があり、その目的のための構成要素として「リラックス」があるといった感じです。

 

 確かに一時的に緊張をほぐしてリラックスする事は、仕事や勉強を進める上では重要です。しかし、仕事や勉強のために何の役にも立たない「怠惰」も重要なのではないか、と私は考えています。仕事のための緊張もリラックスも、結局は仕事の構成要素です。しかし、その構成要素から完全に外れた「怠惰」が無ければ、知らず知らずのうちに視野が狭くなってしまうのではないでしょうか。

 

 目の前の仕事を有利に進めるためには「緊張とリラックス」だけでいいかもしれません。全体を疑い、新しい視点から新しい発想をするためには、怠惰という行為が有効になります。怠惰でなければアクセスできない領域があるためです。今回は、そんな内容について書いてみたいと思います。

 

 

「優秀な人ってなんとなく視野が狭いことがあるな」という経験

 私はプライベートで大企業役員経験者や起業家の方と話したことがあります。また、ツイッターなどを通じて、優秀な学者の日常的なつぶやきを長期間フォローしたこともあります。それを通じて彼らの見識の深さや、視野の広さという物には何度も驚かされました。しかし同時に、「彼らは特定の領域になると、とたんに視野が狭くなる。何度言っても何を言っても、何故か〇〇だけは理解できない」という感想を抱いたこともあります。

 

 それも「〇〇には共感はできないが理解はできる」という穏当なものではなく、「私は断固反対だ。〇〇の様な事はありえない」というような、強い拒絶を伴うものです。もしくは「〇〇なんて下らないことをしている奴、擁護している奴は人間のクズだ」というような、強い見下しを伴うこともあります。

 

 そのような「地雷」を踏んでしまうと、さあ大変です。何故かこっちの評価まで下がってしまうこともあり、今後の人間関係で大きな影響が及びます。こちらも開き直って「〇〇の良さを理解できない老外はダメだ!」と反発してみたところで、社会的に力を持っているのはあちら側なので分が悪いです。そのため「おっしゃる通りでした。私の勉強不足でした」みたいな事を言ってお茶を濁すことが有効です。それか「〇〇は私にとって「政治・宗教・野球」並みに大事にしていることです。申し訳ありませんが、ここは停戦協定を結んでいただければ幸いです」のように、相手の一縷のやさしさに賭ける手もあります。

 

 どちらにせよ、面倒くさいことには変わりありません。そしてこのような面倒くささに接しているうちに、なぜ彼らはこうも面倒臭くて視野が狭いのだろう、と考えるようになりました。そしてそのうちに、私なりの解釈というか、一つの結論が生まれました。それは、彼ら優秀な人は「特定の前提の上に自身の成果を積み上げ、実績を残している。そのため、その前提から外れることや相反する事柄には、強い拒絶や見下しを示してしまうのではないか」といったようなことです。

 

 優秀な実績を残すためには気合だけでなく「効率的な努力」が必要になります。努力というのが自分の時間や精神力、体力を分配する行為でもある以上、一種の戦略的行為だからです。努力の効率性を向上させるために、「特定の前提(土台・パースペクティブパラダイム)に絞ったうえで努力を行う」という事を、彼らは実践しているのではないでしょうか。そしてその「前提(土台・パースペクティブパラダイム)」から外れた事柄に対しては、なまじっかその「前提」を破壊してしまうと感じるために、強い拒否反応を示してしまうのかもしれません。

 

 他人の前提、つまり地雷を踏んでしまっただけならまだ楽です。その時は謝るかナアナアにするかで、あとから「あの人ってなんで〇〇についてだけ急に視野が狭くなるんだろうね」と陰口をたたくだけでいいのですから。しかし、自分がその様な状態になってしまうと色々とマズい気がします。「変化が激しい時代」と言われるように、物事の前提が次々と移り変わる時代において、特定の「前提」に固執してしまうことは非常に危険だからです。

 

 そして、「優秀がゆえに視野が狭くなっている人」を見て、彼らに何が足りないのかを考えた結果、「怠惰」が足りていないのではないか、と思うようになりました。「リラックス」よりも極端な弛緩である「怠惰」です。ではなぜ怠惰が視野を広げるのかというと、怠惰であればこそ「流される」ことが可能になるからです。怠惰に流されるからこそ、勤勉なだけではアクセスできない世界に触れることができ、結果的に視野も広がるのではないでしょうか。

 

怠惰は前提を柔軟にし、視野を広げる

 勤勉に何かに取り組み、リラックスしているときも常に頭の片隅に仕事や勉強がある、という状態では、怠惰は敵になります。その緊張を完全に解いてしまって、怠惰に耽ってしまうと、再度緊張して勤勉モードになるために時間がかかるためです。そのため、怠惰を避け、自分を律することが必要になります。しかし、怠惰には利点もあります。それは「今の前提や生活、仕事に囚われずに時間を潰すことができる」というものです。

 

 人間の生活は基本的に勤勉さに支えられています。また、勤勉さは特定の前提の上に成り立っています。そのため、知らず知らずのうちに生活が前提を支配してしまい、視野が狭くなってしまうという事は往々にしてあります。例えば、工場労働者が勤勉に工場で働いて生計を立てているために「モノづくり」に強い執着を示して、海外への工場移転に対して「日本のモノづくりが空洞化してしまう!」と反対するなどです。

 

 また、大学で優秀な成果を出している研究者が、勤勉に研究に取り組んでいるがゆえに「研究の重要性」を過度に見積もり、大学予算の削減に強く反対したりすることなどです。大学予算は確かに確保されるべきですが、一方で削減された予算によって「他の分野で何が生み出されるのか」を考慮したうえでなければ、大学予算削減に対して有効な反対論は打てません。しかし、その視点を持つことなく、ただ「大学予算を削るな!」と叫ぶだけだったりするのです。

 

 真面目に生活を考え、勤勉にやっているからこそ、どうしても「見えない視点」が生まれてしまいます。怠惰というものは、この「見えない視点」を見るために重要なのではないでしょうか。生活から遊離した怠惰であるからこそ、生活という前提を取り外して、今まで見えていなかったものが見えてくるのだと思います。そして前提を取り外して世の中を見てみるからこそ、今までになかった視点や、自分が固執している何らかの前提が浮彫りになるのではないでしょうか。

 

 モラトリアムという言葉があります。学業と社会人生活の中間点で、何もしない時間を確保するからこそ、そのあとの人生が豊かになる、というようなことがモラトリアムの効用として語られています。このようなモラトリアムを、怠惰という形で日常に組み込む必要があると思うのです。それは「リラックス」のような生易しいものではありません。リラックスはあくまで用意された環境で精神の緊張をほぐし、英気を養うものです。しかし、「怠惰」は、もはや環境のすべてを打ち捨ててしまうような極端な弛緩です。このような弛緩があるからこそ、自身が縛られている前提を改めて中立的に眺めることができるのではないでしょうか。そしてその結果、視野を広げることができます。

 

 そもそも、歴史上何らかの文化的成果を出した人々は「怠惰」の上に何かを成し遂げた事例も多いです。怠惰であるからこそ、当時の社会の前提に縛られず、新しい視点を持つことができたのでしょう。製品からコンテンツの時代になっていると言われる現在、「怠惰」を意図的に取り入れることは重要だと思います。コンテンツは文化的色合いが強い物であるために、意図的に怠惰を取り入れることで、今までになかった発想からコンテンツを考えられるようになります。

 

 しかし、怠惰という物は生活の全てを打ち捨てるような行為です。生活を忘れるのにも時間がかかりますし、そのあとに「社会復帰」をするためにも時間がかかります。つまり、まとまった時間の休みをとることが要求されるのです。日本社会や日本企業についてグチグチと文句は言いたくはないのですが、このような「怠惰」を許すような休暇が取りづらいことは、日本社会の欠点かもしれません。極論を言うと、このような欠点のために、近年のコンテンツ重視の経済で日本は伸び悩んでいるのではないでしょうか。

 

怠惰は日本を救う?~緊張とリラックスの先にある、勤勉と怠惰へ

 勤勉と怠惰の話から、まさかの日本社会批判にまで及んでしまいました。しかし、このような視点は、今後の経済を考える上では重要だと思います。日本人はどうも、特定の前提の上に何かを積み上げることは得意なようです。高度経済成長期からバブルまでは、ひたすら製品改良を繰り返して経済大国にまで昇り詰めました。しかし、現在はIT化や新興国の登場といった「前提の転換」によってピンチを迎えています。また、戦前の日本は軍事大国でもありました。明治時代以降の19世紀型の戦争を究め、アメリカに真珠湾攻撃という大打撃を与えながらも、20世紀型の戦争という「前提の転換」についていけずに敗北を喫しました。

 

 日本人がこうも「前提の転換」に弱いのは、勤勉すぎるからなのではないでしょうか。勤勉なのはいいことでもあるのですが、知らず知らずのうちに特定の前提に縛られるという副作用ももたらします。自分を縛っている前提を取り払い、新しい視野で考えられるようになるためには、怠惰が必要なのではないでしょうか。そしてそのためには、「勤勉」のみを美徳にしている日本人が、「怠惰」を許容するようになる必要があると思います。「緊張とリラックスの有効性」は良く語られますが、リラックスではまだ生ぬるいでしょう。リラックスしているときであっても、心の底では仕事や勉強について考えていて、「生活」を忘れることができません。

 

 もはや生活の全てを打ち捨てて夢想にふけるような、「怠惰」を実現するための時間的余裕を確保する。3日4日の連休ではなく数週間、数か月単位の休みをとって生活を打ち捨てて怠惰に耽る。このような事を許容できるような社会になれば、日本はもっと良くなるのではないか、と思います。

 

 優秀で勤勉なのはいいことです。しかし、現在は次々と前提が変わりつつあります。その様な中で、前提を疑い、新たな視点で新たなものを生み出すためには、怠惰が必要なのではないでしょうか。




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