全てフィクションです。

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『よふかしのうた』と言う最高に瑞々しいアニメがあるから、見てもらいたいという話

はじめに

『よふかしのうた』というアニメが今年(2022年)の7月から放送されました。元々はクリーピーナッツの『よふかしのうた』という同名の楽曲からインスパイアされた漫画『よふかしのうた』という漫画がアニメ化されたと言うややこしい()経緯をたどっているこのアニメですが、情景描写がひたすら美しいと言うことで、たまらずブログ記事にしてしまったという次第です。

 このアニメでとにかく美しいのは、「理想化された夜」と、「思春期に揺れ動く少年少女の心」でしょうか。素人がアニメというプロがつくった芸術作品の品評をするのはどうかと自分でも思いますが、まあインターネットの藻屑と消える運命に(今のところ)定められた記事で適当に書き散らすことくらいは許されるでしょう。

 詳しくは後述しますが、「理想化された夜」というのは、都会的な華やかさ、深夜の静けさ、満点の星空という本来は相反する要素をてんこ盛りにして、これでもかという「現実には存在しない、理想としての美しい夜」をこれでもかと描いているということです。

 そして、「思春期に揺れ動く少年少女の心」というのは、友情と性欲、そして恋愛感情のはざまで揺れ動く心情、とでも言えばいいのでしょうか。とにかく、肉体的・精神的な変化(あえて「成長」とは言いません)に戸惑う思春期の心理を丁寧に描いていることに私は感動しました。

 今回は、そんな『よふかしのうた』というアニメについて、その愛を(稚拙ながら)ぶちまけてみたいと思います。

 

瑞々しいまでの「夜と感情」の描写

『よふかしのうた』でとにかく心を揺さぶられたのは、「夜と感情』の描写がとにかく瑞々(みずみず)しいことです。現実世界では都会の夜に星はありません。地上からの猥雑な光で天の川や星座はかき消されてしまいます。

 しかし、『よふかしのうた』では、都会の華やかな光と、天上の優雅な天の川が同時に描かれています。スタッフもその二つが両立しないことは百も承知でしょう。しかし、この二つが両立して描かれた空というものはこんなにも美しいのだろうか、という感動を覚えました。アニメという「理想をいくらでも描ける世界」で、人工の光と自然の光を見事に融合させているわけです。色味も細心の注意が払われているらしく、どこにも存在していないけど、どこかに存在していて欲しい、「理想的な夜の光景」が描かれています。

 そしてその「理想的な夜」に登場するのは、(第5話の時点では)純粋な少年少女、艶かしいが子供っぽい吸血鬼、少年の幼馴染の少女、理性を失った故に純情を取り戻したであろう酔っ払いくらいで、これまた「どこにも存在しない夜」です。

 夜というのは、魅力的ではありますが、それと同時に「大人の世界」、つまり薄汚い、淫靡なイメージがつきまとうものです。この作品ではそのような汚れはバッサリと切り捨てられています。まるで幼児期の、汚れを知らない時期に私たちが憧れた、純粋な夜というものを見事に描き切っていると私は感じました。

 そしてその「夜」を舞台にして描かれる登場人物たちの心情描写も瑞々しいわけです。主人公は恋愛感情が薄い一方で、人並みに悩みや苦しみを抱えている不登校の少年です。その少年が、「美少女吸血鬼」という特殊な存在を媒介として、様々な感情を育んでいきます。しかし、特殊な媒介があると言っても、吸血鬼の美少女も人間と対して変わるところがなく、むしろ親しみやすい存在です。まあ、吸血鬼らしい世間擦れした雰囲気を醸し出すことはありますが。

 そのような人間の苦しみ、悩みというドロドロとした感情を、「理想化された夜」という舞台を用いてまるで一編の詩のように歌い上げた作品、それが「よふかしのうた」だと思います。

 

思春期の「不純」を取り除いた、「理想的で美しい思春期の描写」

 そう言ったふうに、「理想化された夜」を舞台に、「瑞々しい感情」がほとばしる『よふかしのうた』ですが、これまた理想化されたもう一つの要素があります。それは「思春期」です。

 思春期というのは、理想化されこそすれ、意外とその内情はドロドロとしたものでしょう。男子は性欲を覚えることで女子を邪な目で眺める。女子は女社会のドロドロに巻き込まれて「彼氏のスペック」でマウントを取ることを覚え始める。いずれにせよ、「男女ともに、相手の異性を肉欲や社会的立ち位置を色眼鏡に見始めてしまう」という時期でもあります。

 婚活で重要なのは、男は年収、女は若さという身も蓋もない話がありますが、その芽生えが始まるのが思春期というわけです。

 ただ、『よふかしのうた』では、そのような不純な思春期は描かれません。これは主人公の少年が「異性を好きになれない」という特性を持っていることが大きいためでしょうが、それにしても理想化された思春期だなあと感じます。

 通常、そのような「理想化された思春期」というのは、どこか白々しさを感じさせるものです。性欲や社会的地位への関心がない少年少女が繰り広げるストーリーというのは、美しいとは言えども、標本のような味気なさを感じます。

 しかし、「よふかしのうた」はそのような作品とは一線を画しています。なぜなら、主人公の「恋愛」「性」に対する描写が丁寧に描かれているからです。主人公は「恋愛感情」こそ薄いものの、なんだかんだで立派に「性欲」を持っています。

 「恋愛」と「性」を丁寧に切り離した上で、両者を混淆させて描いている『よふかしのうた』は、逆説的に思春期の「不浄」を切り離すことに成功しています。そこに現れるのは、「送りたかったけれども、送れなかった思春期」です。そのノスタルジアや、現実のゴミ溜めのような世界から、理想の、美しい世界を夢見る私たちの心を抉るものがあります。

 これほど、「思春期」というものを、理想化して美しく描いている作品はないでしょう。

 

まあ設定に無理を感じないこともない

 ということで『よふかしのうた』をべた褒めしましたが、この作品に無理がないわけではありません。主人公は14歳という年にして深夜徘徊を繰り返しますが、これは現実でやると警察に補導されてしまいます。また、主人公と関わる美少女吸血鬼は性的なあれこれを醸し出しますが、これも未成年淫行ということで条例に引っかかってしまうでしょう。

 ただまあ、このような「些細な現実との違い」に目につむるというのは、フィクションを楽しむ上でのお約束のようなものです。必殺仕事人や水戸黄門暴れん坊将軍のような、「現実にはありえない話を展開してくれる」からこそ、私たちはフィクションを楽しめるという部分があることは否定できません。

 このような設定の無理に目をつぶって、フィクションで描かれる「夜の美しさ」、「思春期の感情の瑞々しさ」に浸れるのであれば、『よふかしのうた』は素晴らしい作品になるでしょう。

 そして、この作品は「思春期真っ盛り」の人も、「思春期をとうに終えた大人」も楽しめると思います。現実に苦しんでいる(いた)思春期との差分を楽しめるわけです。その「現実と理想の差分」を楽しむと言うことこそ、フィクションを楽しむ醍醐味の一つではないでしょうか。

 

 と言うことで、今回の記事はこれで終わりにします。ツイッターもやっているので、この記事が面白いと感じたら、是非フォローの方をお願いします。

 

「永い生」が、マルチ商法や情報商材などの「新しいカルト」を生んだのではないか

はじめに

 マルチ商法情報商材などに新興宗教的な匂いを嗅ぎつけたことがある人は多いでしょう。というより、そのような商売の養分になっている人を「〇〇信者」と例えることがあるように、陳腐な比喩表現でしかないもしれません。

 しかし、じゃあなぜそのような「新興宗教」がはびこり、オウム事件のように伝統的宗教の皮を被った「ある意味正統な新興宗教」が流行らないのでしょうか。まあそれはオウム真理教をはじめとする新興宗教が暴れ回ったことへの忌避感という理由もあるでしょう。しかし、それだけではない気もするのです。

 伝統的宗教が「生と死」というテーマを扱うことに長けていたのに対して、マルチ商法情報商材などの「新形態のカルト」とでもいうべきものは、「永遠につづくかと思われる生への不安」を扱っているように私には思われるのです。

 社会が安全になり、医学が発達したことによって「死」が縁遠い存在となったことは喜ばしいことです。しかし、それは同時に「この人生は永遠に続くのではないか」という不安を呼び起こすことになります。そのような永遠の生をただ貧乏に惨めったらしく過ごしたくない、会社や社会に家畜同然に扱われて生を実感できない人生を送りたくない、このような不安の方が現代人にはより切迫感を持つのでしょう。

 では、この生をより鮮やかにするために、死をより身近に感じたいのか、といえばそれもまた違います。できることなら死は遠ざけておきたいというのが人情ですし、現代はそれができる環境が整っています。かと言って、永遠と見間違えるような長くて安全な「生」だけを与えられても、その永遠の時間から恐怖を覚える、これも人情だと思います。例え今は良くても、その永遠の時間のうちに没落してしまう自分を想像することは容易いことですし、恐ろしいことでもあります。そこにつけ込んでいるのが、マルチ商法情報商材などの「新形態のカルト」なのでしょう。今回はそんなことについて話してみます。まずは、伝統的宗教がなぜ昔は力を持っていたのかを私なりに考察して、その後に「新形態のカルト」への考察を進めていきます。

 

伝統的宗教が得意としていたこと

 伝統的な宗教が得意としているのは、「生と死の間で悶え苦しむ人々を救う」ということです。仏教であれば「今世で功徳を積めば来世は救われる」、キリスト教であれば「この世で神の教えを実践すれば天国に生まれ変わることができる」といった具合に、とにかく「生と死」が中心的なテーマになってきます。極論をいえば、伝統的宗教において「生と死」以外は瑣末なテーマに過ぎないのかもしれません。

 伝統的宗教が力を持っていた時代というのは、とにかく生と死の境界線が曖昧でした。幼児死亡率は高く、大人であっても流行病や栄養失調であっさりと死んでしまいます。戦争や事件に巻き込まれて死人が出ることも日常茶飯事です。

 このような時代では、とにかく恐ろしいものは「死」でした。周囲の人間がバタバタと死んでいく中で、心の平静を保つためには神様なり仏様なりにすがり、運命の不可思議と残酷さから目をそらすことが必要だったのでしょう。そうして初めて人々は「死」という究極の恐怖から目を背けることができ、日々の生活をなんとか営むことができたのかもしれません。

 そのように考えれば、現代では伝統的宗教が力を失った理由もある程度説明ができるでしょう。現代はとにかく日常から死が排除されています。新型感染症で大騒ぎにはなっていますが、基本的には高齢者が時々亡くなるくらいで、若い人がバタバタと倒れていくというわけではありません。一方で江戸時代までは天然痘コレラ、そのほかのさまざまな疫病や栄養失調で若い人でもバタバタと倒れていくのが普通の光景だったと言います。

 これほど「死」が縁遠いものとなった時代では、「生と死」というテーマは影響力を失います。葬式でも、稀に若くして亡くなってしまった人の場合は悲壮感が漂いますが、大往生した爺様婆様をあの世に送り出す葬式であれば、壮行会のような快活さすら漂っています。

 そのように、「生と死」が深刻な問題ではなくなった現代では、「生と死」を扱うことに長けている伝統的宗教が力を失うことも道理と言えるのかもしれません。

 

「死への不安」が消えたからこそ現れる「生への不安」

 さて、死への不安は消え去りました。じゃあ人間は生を謳歌できるのかというとそうもいきません。目的も持たず、ただ時間を資本家のために捧げて暮らすだけの人生というのも、考えてみれば馬鹿馬鹿しいものです。しかも死が社会から注意深く排除されているために、「ひょんなことで退場する」ことも現実的ではありません。

 しかも、人生100年とか言われると、もはや「死への恐怖」は「老いへの恐怖」や「貧乏への恐怖」へと移り変わります。老後に働けなくなった時に資産がなかったらどうしよう、社畜や非正規雇用ニートのままただただ人生を空費してしまったらどうしよう、という不安がムクムクと頭をもたげてくるのです。

 「死」という深い谷や急峻な山が取り払われた結果、現代人は見通しの良い平原にポツリと置かれているようなものなのでしょう。果てしない平原の先の地平線は美しいものではありますが、「どこまで行けばいいのだろう」というなんとも言えない恐怖を呼び起こすものでもあります。

 そのような、「際限もなく遠くが見えるからこその不安」というものに、現代人は苛まれてしまう定めなのかも知れません。見晴らしだけはいいが、かといってどこまで行けるのかわからない。自分にその平原を歩くだけの能力があるのかもわからない。そういった不安です。

 さて、そこに救世主が現れます。「私についてくれば、資産を作ることができ、豊かな老後も送ることができ、目的を持って自己実現が叶う人生を送れますよ」と囁く教祖です。まあそれこそが、マルチ商法情報商材なのですが。

 生への不安という(人類史上)特殊な不安に苛まれている現代人は、他に縋る先を見つけることはできません。生まれつき高い能力を誇り、自分が平原を踏破できる自信がある人は、教祖に縋らなくとも生きていけるでしょう。また、平原を踏破できる自信はなくとも、精神力が強い人は胡散臭い教祖に近寄らずに済むのでしょう。

 しかしそうではない平凡で、精神力が弱い人にとっては、新しい教祖についていくことで初めて、「永遠の生への不安」が解消されるのだと思います。新しい教祖は平原を踏破するためのノウハウやコツを教えてくれると言います。まるで伝統的宗教が「死後の世界」を語るように、新しい教祖は「現世の見取り図」を語ります。それが嘘なのか本当なのかはどうでもいいのです。とにかく、そこに物語があり、不安が解消されればいいわけです。

 

「生への不安」を払拭しようとしても、自己責任論しか出てこない

 じゃあどうすれば「生への不安」を解消できるのでしょうか。単純な話です。自分がその永遠に広がるかのような平原を踏破する能力か精神力を手に入れればいいだけなのです。しかしこれは結局のところ幼稚な自己責任論でしかありません。このような幼稚な自己責任論しか出てこないところが、現代社会が抱えている独特な病理なのかもしれません。

 伝統的社会というのはある意味単純な方法を実践すれば「勝者」になれる社会でもあったと思います。それは「とにかく長生きをする」です。長生きさえしていれば、長老だ古老だともてはやされます。そのような状況では「永い生」は別に不安でもなんでもありません。むしろ、生きながらえることは栄光でもあったのです。

 しかし、現代は生きながらえても特に栄光が与えられることはありません。流石に世界最高齢になればテレビ局が取材に来ますが、そこまで生きているのも流石に現実的ではありません。それに、一生フリーターで過ごして、最後の最後だけテレビ局に取材されるというのも、何か惨めな気がします。老人がありふれている現代、長生きは特に喜ばしいことでもなんでもないのかもしれません。むしろそれは、生への不安を掻き立てるだけでしょう。

 死が恐ろしいものではなくなったからこそ、生が恐ろしくなった。そして生への恐ろしさが空回りして情報商材マルチ商法に手を染め、肝心の生を台無しにしてしまう。そして借金によって「自主退場」を考えるようになる。これほど滑稽な時代もないかもしれません。

 じゃあその不安から抜け出すにはどうするか、とにかく自己責任論的に、目の前の物事に取り組んでいくしかないのでしょう。これもまた、なんとも言えない後味の悪い結論ではありますが、そうするしかないのが現代の病理なのでしょう。全ての責任を社会に押し付ける無敵の人が現れるのもむべなるかな、です。

 

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先進国の人口減は「養育コストの上昇」というマルサスの罠2.0なのではないか

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はじめに

 先進国はどこも少子高齢化に悩まされています。日本も例外にもれず、少子高齢化による社会保障費の増大&現役世代の手取り額低下のダブルパンチにあえいでいます。現役世代が減って苦しいのに、現役世代への締め付けを強くして余計に子供が生まれなくなるという悪循環の少子高齢化ですが、解決策はないのでしょうか。

 ある論者は、「男女平等を社会進出を増やせば少子高齢化は改善する」といいます。一方で過激なツイッター論客などは、「むしろ男女平等が少子高齢化を推し進めた」という凄まじい意見も提出しています。インターネットの戯言で「老人だけが〇ぬ病気でも流行ればいいんだけどなあ」という人がいましたが、実際に流行ってしまうと「老人を活かすために若者の生活を削る」という政策が実施されてしまいました。2020年から現在(2022年)までの2年間に青春を制限された若者が、将来恋愛や結婚をマトモにできるのかというのは頭が痛い問題ではありますが、ここでは本題ではないので敢えて触れません。

 

 むしろ、私が考えている少子高齢化の原因は「マルサスの罠2.0」(マルクスではありません)とでもいえるような、社会の発展に伴う養育コストの増大が原因ではないかというものです。マルサスの罠とは、「人口が倍々ゲームで増える→しかし食糧生産は足し算でしか増えない→結果的に増えた人口の食料需要が満たせない→結果的に多くの人が飢えて人口が減る→再度人口が増える」というものです。要は、「人口が増えても、食糧生産は増えないから、たくさんの人が飢えてしまうよね」という理論です。

 マルサスの罠は結果的に化学肥料導入などによる農業生産力の大幅な向上によって解消されました。しかし、そのはずの先進諸国では人口減が発生しています。これは「マルサスの罠2.0」とでも言える現象が先進諸国で発生しているのではないでしょうか。今回の記事は、これについて書いていきます。

 

(注:私はマルサスの原書を読んだわけではなく、あくまでマルサスの罠に関する一般的な説明を読んだだけです。そのため、マルサスについて本格的に研究したことがある人にとっては奇妙に感じられる箇所もあるかもしれません)

 

「食える仕事」の争奪戦が教育コストの増大をもたらし、人口が減る

 教育コストの増大は人口減少をもたらします。これは言うまでのことではありません。子供を高校や大学まで行かせなければならない社会環境であれば、子供一人当たりの教育コストは増大します。そうなると親は有限の財産の中から子供一人当たりに対してより多くの教育コストをかける必要があり、結果的に養える子供の数は減ってしまいます。

 では何故、現代の先進国では教育コストが増大しているのでしょうか。それは「食える仕事」を得るためには、一般的に大卒や高卒である必要があるからです。昔は中卒でも現場仕事なり工場労働なりをしていれば家族を養える給料が得られていたそうです。しかし、現在では中卒に高給を払ってくれる会社はなかなか存在しません。

 社会の高学歴化・機械化が進めば進むほど、「中卒でもできる仕事」の値段は買いたたかれていきます。そして、知識や機械を操作できる専門職の価値はうなぎ登りになり、稼げる仕事は「高学歴」でないと着けない仕事に限定されていきます。

 そうなると、親として「子供を将来、人並みに稼げる人材に育てなければならない」と考えた際に、高校や大学まで進学させる必要が出てきます。つまり、子供により多くの教育コストをかけなければならないのです。

 

 そうなると当然、人口の減少が発生します。限られた財産から子供を教育しなければならないのに、子供一人当たりの教育コストは増大しているのですから、より少数の子供しか育てられないということになります。ツイッターで話題になるような「小学校から中学受験塾で勉強漬け、中高一貫の私立高でバチバチに勉強、大学も四年間しっかりと通い、理系の場合は大学院も当然進学する。」というような状態では、3人も4人も子供を作るわけにはいきません。家庭によっては1人を育て上げるのが精一杯でしょう。

 このような状態では人口が増えるわけがありません。中学校受験をするような層は一部かもしれませんが、世帯年収が300万円のような家庭であっても「子供を高校に活かせなければならない」という圧力があることには変わりありません。その様な家庭にとって、子供が18歳になるまでの養育費や学費は決して安い出費とは言えず、3人も4人も子供を育てるわけには行かなくなります。

 世帯年収が1000万を超えるような上層中流階級は中学受験に教育コストを吸われ、世帯年収が400万を切るような上層とは言えない中流階級は「子供を高校まで養わないといけない」という教育コストを吸われてしまいます。

 ツイッターやインターネットの住人は大学での「高学歴」が普通なので意外かもしれませんが、現在の日本の大学進学率は50%ほどで、残りは専門学校卒や高卒で社会に出ていきます。しかし、高卒のような「ネット民から見れば低学歴」の世界でも、「流石に中卒はキツイから、せめて高校は出ておけ」ということが言われています。

 社会の上層も下層も(何をもって上か下か言うのは分かりませんが)、とにかく「限られた所得から、精一杯の教育投資をしている」のが現在の子育てなわけです。親の「階級」を子供に引き継がせるためのコストが増大していると言っていいでしょう。その様な状況では、「義務教育プラスアルファ」が求められます。この「義務教育プラスアルファ」の出費が、おそらく人口減少に拍車をかけているのでしょう。

 

 これはマルサスの罠と相似形をなしていると私には感じられます。マルサスの罠では「人口が増える→人口を支えるだけの食料を社会が供給できない→結果的に人口が減る」という論理が成り立っています。

 一方で今の社会では、

「人口が増える→社会が発展する→発展に見合うだけの教育コストが求められる→しかし社会(政治)はその教育コストを全面的には供給できない(大学の学費が上昇しているのがいい例でしょう)→結果的に教育コストの不足から人口が減少する」

という論理が成り立ってしまっています。これはまさにマルサスの罠2.0とでも言えるのでないでしょうか。

 

人口減少は教育コストの低下を(おそらく)もたらす・人手が足りなくなれば低学歴でも「食える」

 ということで、「教育コストの増大が人口減少をもたらす」という論理を追ってきましたが、逆に「人口減少が教育コストの低下をもたらす」という論理も存在するのではないかと思います。今度はそれについて考えていきたいと思います。

 人口減少はとにかく「人手不足」をもたらします。そうなると、「誰でもいいから、カネはとにかく払うから、仕事をしてくれ」という事になります。こうなると、大卒だろうが高卒だろうが中卒だろうが、誰でも仕事につけることになります。レジ打ち、運送、飲食店、水商売など、「単純労働」とされる仕事であっても、人手不足であれば需要と供給の法則から給料が上がるでしょう。そうであれば「低学歴でも仕事がある」状態になり、教育コストは低下します。

 マルサスの罠の後半部分では「人口が減った結果、食料に余剰ができ、再度人口が増える」という論理が成り立ちます。まさに現代社会でも同様に、今後「人口が減った結果、仕事に余剰(人手不足)ができ、再度人口が増える」ということが発生するのではないでしょうか。移民を入れずとも、数十年もたてば「人手不足による賃金上昇と教育コストの低下」が、勝手に人口を増加させてくれるのかもしれません。

 人手不足により「肉体労働でも家族を養える社会」が到来すれば、わざわざ子供を大学なり高校なりに進学させる必要はありません。中卒で社会に放り出しても、それなりに食っていくことができるのですから。

 しかし、このシナリオは決して楽観的なものではありません。「人手不足」が「人口の増加」によって解消された場合、再度「高学歴を求めるチキンレース」が発生してしまうからです。人口の増加によって人手不足が解消されると、一部の「稼げる仕事」に人気が集中します。そのような仕事はおそらく大卒などの高度な技能・知識を要求するでしょう。そうなれば元の木阿弥で、再度の教育コストの増加が人口減少を引き起こしてしまいます。

 

 以上の私の「僕が考えた最強の理論」に従うと、「人口増→教育コストの増大→人口減→教育コストの低下→人口増」のサイクルを先進諸国は延々と繰り返すことになります。これはまさに罠といって差し支えない状況でしょう。では、どうすれば私たちはこの罠から逃れることができるのでしょうか。

 

マルサスの罠2.0を乗り越えるにはベーシックインカムの導入?

 マルサスの罠2.0を乗り越えるために参考にすべきなのは、本来のマルサスの罠との比較においてでしょう。本来のマルサスの罠では「食料の供給が増えない」ことが原因でした。一方でマルサスの罠2.0では「『食える仕事』が限られているための、教育コストの上昇」が人口が増えない原因になります。結局問題は「人間がどうやって食うか」というところに帰着するわけです。

 本来のマルサスの罠は「食料供給の増大」で解決しました。しかし、マルサスの罠2.0はそれだけでは解消できそうにありません。「子供の将来を思う」という親の切実な願いが教育コストを押し上げ、人口減少をもたらしているのですから、単純に食料供給を増やすだけでは意味がなさそうです。

 

 解決策になるのは「子供の将来を心配する親心」への緩和策でしょう。親としては「子供が将来きちんとした立派な人間になってほしい」という思いから教育コストを増大させ、それが結果的に人口減少に繋がっているのではないか、というのがマルサスの罠2.0です。そうであれば、ベーシックインカムの導入や、大学の無償化などの施策が有効だと思われます。

 ベーシックインカムも大学無償化も、現在の経済水準・技術水準では難しいものがあります。しかし、AIや各種技術の発展により、いつしかそれが可能になる日が来るのかもしれません。マルサスの時代にはなかった化学肥料がマルサスの罠を解決したように、マルサスの罠2.0にあえいでいる時代にはない新たな技術が、マルサスの罠2.0を解消してくれるのかもしれません。

 

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オッサンの取り扱い説明書。オッサンの生態とそのハック方法について

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「オッサン」。これほど疎ましい存在はないかもしれません。ただ面倒くさい存在なだけならばいいのかもしれませんが、何かと組織の中で力を持っているのはオッサンです。面倒くさいが、付き合わなければなりません。しかも地雷がどこにあるのか分からず、面倒くささに輪をかけています。単に面倒くさいだけのオッサンならいいのですが、オッサンは組織や共同体で実力を持っていることも少なくありません。

 そのため、物事をうまく進めようとするとオッサンに対処する必要が出てきます。また、オッサンは何だかんだ長年生きてきただけあって、蓄積されている経験知や世間知はすさまじいものがあります。私はあるオッサンに「物事のはじめと終わり、つまり栄枯盛衰は本を読んで勉強した方がいい。例えばテレビの発展と没落とかだね。生々流転のパターンを知っておくと何かと役に立つよ」という、なかなか深いことを言われたことがあります。オッサンが全員このように深く考えているわけではないでしょうが、オッサンによってはなかなかどうして深くて役立つことを教えてくれるのです。

 そんな憎たらしくも愛らしいオッサンについて、如何に彼らとの衝突を避けて上手く付き合うか、そしてできれば上手く自分の利益につなげるのか。今回の記事では、そういう話をしてみたいと思います。

 

地雷を避けるためには「結論・前提ファースト」をこころがけよ

~オッサンの決めつけはオチや前提を最初に言うことで回避できる~

 オッサンと話すときは、その決めつけの凄まじさに辟易とします。話のオチを聞いてくれなかったり、話の前提まで聞いてくれずに「それは違う!」だの「それじゃあダメだ!」と頭ごなしに否定してきます。仕事上の会話であれば結論ファーストで話す必要がありますが、会話を楽しむための日常会話においても「オチ」という結論を待ってくれません。基本的に短絡的なのです。

 ある時私がオッサンに、「最近自転車が壊れてて、そして直すの面倒くさいんですよね(話のフリ)。でも、そのおかげで毎日歩くようになって景色をよく見れてます(話しのオチ)」という話をしようとしたことがあります。しかし、フリの部分の「面倒くさい」というワードにかみつかれました。その結果、「人生なんて面倒くさいんや!いちいち面倒くさがるなら生きてるのをやめろ!」という凄まじい否定を食らいました。「歩きは歩きで景色が見れてよい」というオチまで待ってくれないのです。

 楽しむための会話というのは「下げて上げる」のような構成をとることが多いです。そうすることで話にメリハリをつけられます。しかし、オッサンにこれは通用しないことがあります。「下げる」の段階で「そんなマイナスなことを言うな!」とお叱りスイッチを起動してしまうのです。そのため、最初に「話のオチの部分。上げる部分」、つまり結論を言ってしまうことで、オッサンの短絡的なかみつきを回避する必要が出てきます。

 

 また、オッサンは話の前提を確認してくれません。この時は結論ファーストではなく前提ファーストがいいと思います。例えば、「1+1が3や4になることがあります(話の結論)。これは二次関数みたいに、単純な足し算とは異なる状況だからです(話の前提)」という説明をするとかみつかれる時があります。「1+1は2だバカ野郎!勉強しなおしてこい!」という感じです。

 こうなるといくら前提を説明しても聞いてくれません。1+1は2であることをひたすら説教されます。途中で前提を説明しようとすると、「1+1もわかってないお前の言葉に何の価値があるのか?!人の話をさえぎるな!」ということで、余計なお叱りスイッチを起動してしまいます。

 それを避けるためには、「ここでは二次関数で物事を考えます。単純な足し算とは異なる世界です(話の前提)。そのようなときには、1+1が3や4になることがあります(話の結論)」のような話の構成にすることが無難です。前提を最初にすり合わせることで、オッサンの決めつけを回避する余地が生まれます。

 オッサンの短絡的なかみつきは非常に厄介です。しかし、「短絡的」というオッサンの生態を理解してしまえば、ある程度対処可能です。短絡スイッチが発動する前に、オッサンをこちらの話の中身に引きずり込めばいいのです。そしてそのためには「結論ファースト」や「前提ファースト」などで、こちらの話の世界観をオッサンに事前に伝えておくことが有効になります。

 

オッサンは精神論が大好き。多少はそれに合わせてみよう

 ~合理的に精神論をハックしてみよう~

 オッサンは精神論が大好きです。何でもかんでも気合や意欲の問題にしてしまいます。しかも余計にタチが悪いことに、戦前の軍国主義的残りカスと、手塚治虫的な戦後ヒューマニズム悪魔合体して独特の世界観を作り上げていることもあります。そんなタイプのオッサンはうつ病を気合のせいにするくせに、薬で治療しようとすると「精神薬は人間性への冒涜だ!人格を変えてしまう薬なんてとんでもない!」といい始めたりします。

 まあ、そういう悪魔合体タイプのオッサンには精神薬を飲んでいることなんかは隠した方がいいのですが、それでも問題は残っています。オッサンはやたらと精神論が大好きなので、それに合わせて上げないと不機嫌になってしまうのです。

 例えば、オッサンと野球の試合を見ていてバッターが見逃し三振をしてしまったとします。そのとき、オッサンは「あのバッターは気合が足りないから見逃ししたんだ!気合が足りんぞ気合が!」とぶち上げます。しかし問題は、バッターに気合が足りなかったから三振してしまったのは本当なのか?ということです。

 審判の判定がおかしくてボール球をストライクと判定されたのかもしれません。もしくは、バッター側に「ピッチャーはフォークボールを投げてくるだろう」という読みがあったのに、あっさりストレートで三振を取られてしまったのかもしれません。この場合は気合の問題というより、審判や投手のクセを理解できていなかったという、戦略的な失敗が問題になるはずです。

 

 もちろん戦略的失敗を考慮できるロジカルなオッサンも多く存在します。しかし、やはり下の世代に比べて「気合の問題」にしてしまうオッサンが多いことも確かです。こうなるともう、オッサンの精神論に少しだけ付き合ってあげる必要があります。例えば先ほどの三振の例でいうと、「審判のクセを把握するという努力を怠ったという意味で、気合の問題だ」や、「配球への読みが外れても、そこで対応できない気合の問題だ」という意見を言えばいいわけです。ロジカルな部分と気合の部分を無理やりつなげて、オッサンに合わせてしまえ、というわけです。

 プロ野球をみるなどの「他人の話」を気合の問題にしてしまうのはまだ被害は少ないです。しかし、これが自分に降りかかってくるととても面倒くさいことになります。自分の失敗の本当の原因が戦略面・ロジカル面にあったとしても、それを言うことは「気合が足りなかった言い訳」としか聞いてくれないからです。

 そう言うときは、「今回の失敗には気合の問題が大きいです。確かに戦略的に甘い部分がありました。しかしそれは戦略を詰め切れなかったという意味で気合の問題です。それに、戦略的に失敗していても気合で挽回できる余地がある場面は確かにあったと思います。やっぱり最後は気合が足りませんでした。申し訳ございません」という風に弁解する必要があります。とにかく、「精神論」というパッケージをかぶせることで、オッサンに少しだけ歩み寄ってみるのです。

 

 ここで重要なのは、「精神論」というパッケージをつけることは不合理ではなく、むしろ合理的であるということです。オッサンという特殊な生態を持つ生物とうまく付き合うために、オッサンの生態に合わせた合理的な戦略が「精神論というパッケージをつける」ということなのです。むしろ、オッサンに対して合理論だけで立ち向かうのは逆に不合理です。

 「精神論が大好き」というオッサンの生態をハックするためには、こちらも精神論で武装するのが合理的なのであって、こちらが合理論に固執することは不合理です。それはもはや「合理性大好き。合理性を信仰している」というこちら側の「不合理」を露呈してしまっているからです。オッサンの精神論を合理的にハックすることで、こちらの要求や意見、謝罪などをうまく受け入れてもらえる可能性が上がると思います。

 

オッサンが「最近の若い者は云々」というのは人類普遍の小言。まあ適当に合わせよう 

~オッサンの若者ディスりは、男児中学生の下ネタ連呼と同じ~

 オッサンと話していて何よりも「イラっと来る」事は、事あるごとに「最近の若者は云々」という小言を挟んでくることです。そのくせ当のオッサン自身の若いころの話をよくよく聞いてみたり、犯罪傾向の統計データを見たりすると、「いやオッサンが若いころの方が俺らよりもレベル低いしモラルもねえよ」と思ったりしてしまいます。

 私がオッサンに言われたことの一つに、「最近の若者は勉強しない」というものがあります。そのオッサンは自分が大学時代に受けた経済学の授業を自慢げに語り、「今の若者には出来ねえだろう」という感じで迫ってきました。しかしまあ、その内容はなんとも「しょぼい」と感じさせるものでした。統計データを活用しているわけでもない、数学的に厳密な理論的考察を行ったわけでもなければ、回帰分析といった分析手法を使っているわけでもなし、何かしらの経済理論に基づいているわけでもなし。とにかく「それってあなたの感想ですよね?」とでも言いたくなるような内容でした(まあ面倒くさいので適当に持ち上げましたが)。

 また、「最近の若者はモラルがない。我々の時代には云々」というものがありますが、今のオッサンが若いころの方が少年犯罪の犯罪率は高く、むしろ平成に入ってから「人口当たりの少年犯罪」は減少傾向です。まあ、そういう統計データをだしてみたところで「屁理屈を言うな!そういうところがモラルがないって言ってるんだ!」と言われるのが目にみえるので、適当に話を合わせますが。

 

 とはいっても、このような「オッサンの上から目線」は、今に始まったことではありません。古代エジプトの時代にも、「最近の若者は云々」という文書があるそうなので、人類普遍の「やらかし」のようなものなのでしょう。思春期になれば性に目覚める、青年期になれば現実離れした正義を求める、壮年期になれば若者を見下す、というのは、人類の備わった一種の本能なのかもしれません。面倒くさいのは面倒くさいですが、「下ネタを言いたくて仕方ない中学生みたいに、オッサンという人種は若者ディスりをしたくてしょうがないんだな。もうそれは本能みたいなものだからどうでもいいや」とでも流しておきましょう。

 むしろ、そうやって「若者を見下す」というオッサンの生態をハックすれば、「こいつは若いのに見どころがある」と勝手に思ってくれて、何かと良くしてくれるようになるかもしれません。オッサンの生態をハックしてしまえば、何かと人生が楽になるかもしれません。

 

オッサンには「恩返し」ではなく「恩送り」の心で接してみよう

 ~オッサンは先に死んでしまうから恩は返せなくて当たり前~

 オッサンと上手く付き合う工夫が身についてくると、オッサンに恩を受けることが増えてくるでしょう。何かをおごってもらったりするだけでなく、仕事や日常で何かと世話を見てもらうなどです。こうなるとこっちも恐縮してしまい、オッサンに何かを返す必要性を感じてしまうことがあります。しかし、オッサンに恩を返す必要はありません。「恩送り」という、自分よりも下の世代に「オッサンから受けた恩を間接的に返していく・渡していく」ということを考えればよいのです。

 オッサンというものは先に死んでしまう生き物です。人生100年時代とは言いますが、順番通りにいけば先に死ぬことには変わりありません。時間や寿命という人間にとってはどうしようもない要素が、オッサンへの恩返しを阻んでしまうのです。それに、オッサンに金銭面や仕事面で恩を受けても、こちらには恩返しをできるリソースはありません。オッサンへの恩返しは絶望的な事なのです。

 

 そのため、将来自分がオッサンオバサンになったときに、自分よりも下の世代に何を返すべきか、を考える必要が出てきます。そして、大半のオッサンもそれを望んでいるはずです。オッサンが若い人に便宜を図るのは、「世間への投資」の面が強いです。要は将来その投資を大きく成長させて、世間に還元してほしいのです。それなのに、せっかくの投資がまだ膨らんでいないうちに返されてしまったのでは、オッサン側も興ざめしてしまいます。

 だからこそ、「今回はありがとうございました!今はあなたに返すことはできません。とても申し訳ないです。でも、これから自分なりに頑張って、自分がオッサンになったときに下の世代に同じことができるように、恩送りができるように頑張っていきます!」とでもいえばいいのです。

 そもそも、オッサンはそのような健気な姿勢というものが大好きなので、健気な姿勢をみせてオッサンを喜ばせてあげられた時点で恩返しの大半は終わったも同然なのです。こうすればオッサンは気をよくして、次回以降もますます便宜を図ってくれるかもしれません。しかしそのお返しとして、こちらがきちんと頑張って成長を目指すことが必要になるのですが。ただ、それも自分の成長につながって人生が前向きに上向くなら、オッサンとの関係をうまく自分の利益につなげられたということで、なかなか悪い話でもない気がします。

 

オッサンも実は繊細な存在である

 ~オッサンだって一人の人間である~

 さんざんオッサンの悪口を書いてきました。それに、世間にはオッサンに対する悪口であふれています。しかし、そんなオッサンも一人の人間なのです。純真無垢だった幼少期、多感だった思春期、夢に燃えた青年期を経て、オッサンになっているのです。そこにはドラマがありますし、人生に悲しみは付き物である以上繊細な傷を抱えて生きています。

 しかし、オッサンとは悲しい生き物です。そのような悲しみや繊細さを出すと「なんか頼りないな」ということで、周囲から距離を置かれてしまいます。まれに繊細さをうまく表現しつつ立場を保っているオッサンもいますが、それには技術が必要になります。すべてのオッサンがそのような技術を持っていない以上、多くのオッサンたちはガハハと強がってしまうのです。

 「謝れないオッサン」という生物がいます。絶対に自分の否を認めず、他人のせいにしてしまう悲しいオッサンです。しかし、オッサンがそういう風になってしまうのにも理由はあります。少しでも謝って弱みを見せた結果、その弱みに付け込まれて攻撃されてしまった、というような過去があるのです。その結果、オッサンは「謝る=社会的死」という公式を心に刻んでしまい、謝ることができなくなってしまっているのかもしれません。

 もちろんだからといって何なのだ、という話ではあります。しかし、そのようなオッサンの悲しみや繊細さに思いをはせてあげることは無駄ではないでしょう。そうすればいつの間にか心を開いてくれて便宜を図ってくれるかもしれません。それに、自分たちも将来はオッサンオバサンになる以上、オッサンオバサンに特有の悲しみや辛さというものは事前に知っておいて損はありません。

 そして、オッサンは長く生きてきただけあって、何かしらの一家言を持っている人もいます。確かにオッサンは短絡的な生き物です。しかしその短絡さ、つまり「決めつけ」は「蓄積された経験則」の結果でもあります。そのような一家言や経験則を知っておくことは、自分自身の人生にとっても貴重な財産になると思います。それにオッサンが先に退場してしまう以上、そのような先人の知恵を知る時間には限りがあります。

 憎たらしくも愛らしいオッサンたちを拒絶するだけでなく、上手く付き合って自分の利益・成長につなげることができればウィンウィンです。ということで、今回の記事はこれで終わりにします。

 

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文系知識は戦略(大局)を、理系知識は戦術(局所)を担当するのではないか

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はじめに

 文系と理系の区別、これほど下らないことはないかもしれません。「学問を究める」という上では、最終的に文系と理系の区別などなくなってしまいます。例えば、文系を究めるにしても、統計学や論理学(数学とも言える)の知識は必要になってきます。また、理系を究めるにせよ、「社会の中でその理系知識がどういう立ち位置にあるのか」を明確にするために、文系の知識が必要になってきます。

 しかし、社会を回すうえでは文系と理系の区別をすることには一定の合理性があります。人によっては文系的な文献解釈、言語概念操作の感覚が優れている人がいますし、逆に理系的な数的概念の操作や工学的探究に優れている人がいます。その様な個々人の特性に合わせて教育をするためには、文系と理系に分けてしまえ、というのも納得できます。また、現在の産業社会が資本主義とテクノロジーの両輪で回っている以上、資本主義のシステムを担当する文系(会計士や弁護士、事務職など)と、テクノロジーを担当する理系(技術者や研究者など)に分けてしまった方が、経済を回すうえでも都合がいいことも事実でしょう。

 ただ、文系と理系の区別が無用な対立を起こしている場面があることも事実です。文系の方は理系を「情緒や現実を理解しない奴ら」とさげすみ、理系の方は文系を「口先ばかりで実用的なことができない奴ら」とさげすむ場面があります。

 

 そんな文系と理系の対比ですが、あえてその構図にのっかった上でこの記事を書いていこうと思います。そしてそれは、「文系知識は戦略(大局)を、理系知識は戦術(局所)を担当するのでは?」という事です。

 ケインズという経済学者が、「どんな狂気じみた独裁者も、結局は狂気じみた学者の文章に操られているだけだ。ある意味で一番影響力が強いのは狂気じみた文章を書く学者だ」というような事を書いています。この「狂気じみた文章で、狂気じみた独裁者を操る」は、まさに思想を生み出すという文系の特徴を表しているでしょう。一方で、その狂気じみた思想を実現するための「生産力」は理系知識なしには得られません。今回は、このような話についてしていきたいと思います。

 

(注:この記事では、「文系的思考=定性的思考」、「理系的思考=定量的思考」という前提に立つ箇所が多いです。定性的思考とは主に言語によって物事を考えることで、定量的思考というのは主に数によって物事を考えることです)

 

文系知識は「人権」「民主主義」などの「当然すぎて気づかない前提」を生み出す

 「人権」や「民主主義」、「宗教に対する理性の優越」ということは、現在では当たり前になっています。むしろそのような価値観に対して疑いを抱くと、「変な思想を持っている人」というレッテルを貼られかねません。新興宗教を信じて理性や科学を信じないならまだしも、人権や民主主義といった概念を公然と非難するのはなかなかの覚悟が必要になります。

 しかし、人権のようなこれら概念は、結局概念でしかありません。神様や仏様といった「概念」を信じない人がいるように、人権や民主主義、理性といった「概念」を信じない人がいてもおかしくはありません。しかし、人権や民主主義、理性といった概念は絶対的な「法則」として、現代社会に埋め込まれています。

 文系知識、より詳しく言うと「文章に言葉で書かれた、定性的な知識」は、人間社会がよって立つ「当然すぎて気づかない前提」を作り出します。昔は聖書や経典、論語が絶対的だったことと同じく、現在は「人権や民主主義について書かれた、リベラル思想の経典」が絶対的な前提として社会に君臨しているのです。

 

 これは結局、人間が「言葉で社会を運営している」動物だからでしょう。人間は本来的に数学より国語の方が得意なのだと私は思います。幼稚園児でも文法規則を自然と理解して喋ることができます。一方で数学(算数)の規則については、学校で「人工的な算数教育」を受けなければ、足し算すらおぼつきません。このように人間が「数学的規則(定量的思考)より言語的規則(定性的思考)」に強いという特徴は、人間が運営する社会の性質を規定すると私は考えています。それは、「社会は理系知識ではなく言葉(文系知識)で運営される」という性質です。

 そして、言葉という道具を使って人間は「神仏」「人権」「民主主義」などの定性的な概念を作り出し、それを基に社会を運営していきます。今までのところ、社会が「微分積分」や「DNA」、「量子力学」などの理系知識に基づいて運営されたことはありません。それは理系知識の発見がここ数百年の話であることも関係しているのですが、文系知識の方が理系知識よりも「古い」という事も示しています。「古い」文系知識は、理系知識と比較してより深く「人間の本能的な部分に入り込む」のでしょう。

 

 話を人権や民主主義に戻しますが、これらは別に絶対的な概念でも自然法則でもありません。むしろ概念という意味では道具の一種であり、使う人によっては悲劇をもたらします。ポルポトスターリンなど共産主義の悲劇は有名ですが、「人権」という概念で人が殴られる場面に私は遭遇したことがあります。

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 人権や民主主義、理性などの概念は長い時間をかけて優秀な思想家や実務家が磨いてきた概念でもあります。そういった意味では、このような概念は「洗練されている」のです。しかし、所詮は概念でしかなく、それを妄信することはカルト的だと感じます。文系知識とは、このような「人間の思考を支配できる概念」をつくる力を持っています。そしてそれは「当たり前すぎて気づかないし疑えない絶対的前提」を作り出すのです。これこそが、文系知識の強みでしょう。文系知識とは、「絶対的前提を作ることにより、社会の戦略的な資源分配を決定する」という、恐ろしい力を持っているわけです。

 一応言い訳をしておきますが、私は「人権」や「民主主義」という概念は必要なものだし、守るべきものだと個人的には思っています。公民の教科書に書かれている歴史は、これらの概念が孕む狂気を社会的手続きにまで落とし込み、人びとの生活を守るための武器であり盾へと洗練させてきた歴史です。このように洗練された武器は、簡単に手放して良いものとは思いません。

 このように、文系知識が持つ力について語ってきましたが、文系知識だけで世の中が回っているわけではありません。次に、理系知識が担当している部分について見ていきます。

 

理系知識は「役に立つ」一方で、大局的な思想に大きく制限を受ける

 理系知識は役に立ちます。電磁気学情報科学、化学などなしでは、現在の豊かな生活は成り立ちません。また、数学という厳密な思考言語は、人間が持つ科学知識をより抽象化して一般性を持つものへと形作ることができます(そういう意味では数学は究極の文系知識と言えるかもしれませんが、ここではざっくり理系としておきます)。

 その様な強力な理系知識ですが、実は一つ重大な欠点を抱えています。それは「社会から許可されなければ、その知識を活用するどころか探求することすら不可能になる」という点です。進化論や地動説、そして最近の遺伝子工学など、「社会の側の都合」で沈黙させられてきた理系の研究には枚挙にいとまがありません。理系知識とは、社会が持っている大局的な思想に大きな制限を受けるわけです。

 そもそも、理系知識が深まったのは「科学」という特殊な思考法、アプリケーションとでもいえる方法論が社会に受け入れられたためです。科学を社会の側が受け入れなければ、理系知識は活かされるどころか抹殺されてしまうのです。

 

 理系知識が社会の側の都合でゆがめられた事例としては、「ルイセンコ論争」があるでしょう。これはルイセンコというソ連の研究者が、「後天的に獲得した形質も遺伝する」という誤った理系知識(思想)を発表したことに端を発する騒動です。この思想はソ連の上層部に気に入られ、「社会的に力を持って」しまいました。その結果、ソ連の生物学はゆがめられ、正統な理系知識の探求が困難になってしまったそうです。

 理系知識の長所に、「この宇宙であれば、どこでも通用する論理を打ち立てることができる」というものがあります。それは確かにすごいことですが、社会の側がその論理を受け入れるのかどうかは別問題です。しかし逆に言うと、社会の側に受け入れられている理系知識を勉強することは、手っ取り早く高収入を手に入れる道へといざなってくれます。

 現在社会の側に受け入れられ、むしろ要求されている理系知識の典型として、情報工学が挙げられます。偏差値がそれほど高くない地方大学の情報科学系の学部で4年間、修士課程で2年間の計6年間を情報工学の習得に費やせば、基本的に就職先に困ることはありません。また、機械工学や建築学、医学なども社会の側から要求されている「理系知識」でしょう。

 

 文系知識が大局を決定するのは事実ですが、じゃあ文系知識を究めたらだれもが社会の大局を決められる立場になれるのかというと違います。むしろ、文系で大学院の博士課程まで進んで、そのあとに就職が無くて発狂してしまい、精神病院に「転院」してしまう事例もあるそうです。理系の博士課程も厳しい状況であることに変わりはないでしょうが、「大学院の博士課程で神学論争についてラテン語で研究していました」というような人よりは一般企業に就職しやすいことは確かでしょう。

 そういった意味では、理系知識は「地に足がついている」と思います。大所高所から言論をぶちまけ、一部の論客だけが地位を得る文系と違って、理系知識を修めた大多数の人はその知識を活かした仕事に付くことができます。ただこれは、「文系知識は大将を作り、理系知識は兵隊や幹部を作る」ということなのかもしれません。社会の根本的な部分が法律や会計といった文系知識で回っている以上は、理系知識だけでは少し心もとないことも事実でしょう。

 

結局どっちも大事だよね、というありきたりな結論とその限界

 これまで文系知識と理系知識について(私の狭い見識のなかで)議論してきましたが、結局「良き市民」たるには、どちらの知識も必要だということでしょう。文系知識だけを磨いて理系知識がスカスカだと、疑似科学の餌食になって大金や名声を失ってしまいます。逆に理系知識だけ磨いて文系知識がスカスカだと、気づかないうちに反社会的な活動に手を貸してしまったり、詐欺や金融陰謀論などにハマりかねません。

 また、「人の上に立つ」事を目指すのであれば、文系知識と理系知識の両立はより求められると思います。組織で上に立ち、大きな決断をする上では、致命的な間違いを減らす必要があります。それは法的な間違い、会計的な間違い、科学的な間違いの全てを含んでいます。科学的知識を欠いているがゆえに、疑似科学製品を売り出してしまう経営者を想像すればよいでしょう。

 かといって、理系知識だけだと「スキルの切り売り」だけになりかねません。法律や会計といった「社会を動かしているルール」が理解できなければ、スキルを売る以外にできることが限られてきます。事業売却やストックオプションなどの仕組みを理解していなければ、ただ平社員として「再生産分の賃金」しか与えられないのですから。

 

 とはいっても、高度に学問が発展した現代において、文系知識も理系知識も深めるというのは無理があります。膨大な量の文献を読み、論文まで目を通し、メタ分析もして「真理」を探求するというのは、余程の暇人か、余程の超人でなければ無理でしょう。そういった意味で、「文系も理系もどっちも大事だよね」という発想は理想論であり、限界があります。

 知識が氾濫しすぎて、「誰が本当の事を言っているのか分からない」という混沌とした状況にあるのが現代社会です。おそらく、このような状況で重要になるのは「本当のところは分からないけれど、こいつが言うことなら信用できる」というような、人間観察力のようなものなのだと思います。成功している政治家には科学的知識のかけらもなさそうな人がいますが、彼らは「科学的知識を持っている官僚や有識者」を見抜いて信頼するのが上手なのでしょう。「自分の理性ですべてを考える」というのは時代遅れなのかもしれません。むしろ、「信頼できる人間を見分ける経験則(ヒューリスティック)」を磨くということが、情報があふれるこれから先の時代に「良き市民」たる要件になるのかもしれないと思いました。

 

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「エモい」に耽溺するのはガキと芸術家の特権である

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はじめに

 「エモい」という言葉が広まってだいぶ時間が経ちました。「何とも言い表せない形で感情が動かされた」という意味を持つこの言葉ですが、平安時代の「をかし」との共通点も指摘されていたりします。「最近の若者は何でもかんでもエモいっていうから語彙力が落ちてる」という批判もあるかもしれませんが、一方で「エモい」という言葉でしか表現できない場面があることも確かです。「切ない」「うれしい」「美しい」「辛い」のような様々な感情が一気に押し寄せたときに、「エモい」という言葉で表現するしかないのでしょう。

 そんな若者文化の中核の「エモい」ですが、おそらく同様の「感情の動き」は昔から人間は持っていたのでしょう。だからこそ、平安時代清少納言が「いとをかし」といって自然や人間のエモさを讃えたのだと思います。一方で、この「エモい」という言葉はあまりにも「感情」に寄り添いすぎています。現実的な困難や解決策、ピンチなどから目を背けて「だもこの状況ってエモいよね」なんていう感情的な逃避ができてしまいます。そうなってしまっては、現実的な解決策を考えることなく感情に浸ったまま、社会的・物理的な死をゆるやかに迎えてしまいます。

 また、「美しい」寄りのエモさを追求しようとしても、現実からの遊離が発生してしまいます。美しさという物には麻薬的な快楽があります。体の芯から湧き上がるような、神々しい美しさに耐えられる人はいないでしょう。むしろ、現実の美しさを上手く脳内に再現できない人が、麻薬に頼って「美しさという快楽」を再現しようとしているのかもしれません。いずれにせよ、美しさだけにかまけていれば、麻薬中毒者のように現実を忘れて正気を失ってしまいかねません。

 

 エモいだけにかまけていると、感情に寄り添いすぎて理性を忘れたり、麻薬的な快楽に溺れたりして、いずれにせよ現実から離れてしまいます。将来の事を考えて現実的な努力を積み重ねる上では、エモいという感情に蓋をする場面も必要になってくるのです。しかし、世の中には「エモい」に蓋をせずに、ひたすら耽溺できる人たちがいます。それは「ガキと芸術家」です。今回はそんな話をしていきます。

 

「ガキ(子供)」は生活や将来から遊離することができる。むしろ遊離しているからこそガキである

 ここではガキという表現を使いましたが、イメージとしては20歳前後の若い人を想定しています。20前後というものは、「大人の世界の快楽や欺瞞」に初めて本格的にアクセスできる期間です。その期間を表す言葉こそが、青春という言葉なのかもしれません。世界観が大きく変わり、今まで知らなかった酒や各種行為への快楽も知ることができます。一方で、大人の世界の欺瞞を感じ取ったり、その欺瞞に適合できなければ「社会不適合者」として破滅する将来もチラチラと見えてきます。そのような「経験の津波」を浴びせられて混乱した心情こそが、「エモい」という物なのかもしれません。

 そして、「他人を食わせる」という生活や現実に直面しない限りは、その混乱を「こんな風に混乱している自分ってなんかエモいな」と解釈して、自己愛や自己憐憫に基づいた「エモさへの耽溺」をすることができます。そしてその耽溺は、生活や将来から遊離している間だけ、可能になるわけです。また、20歳前後はまだ体も若く、肌にもハリがあります。つまり、「生物として美しい」わけです。自分の「生物としての美しさ(若さ)」に対する、ナルシシスティックな耽溺も、「エモい」の一つの側面かもしれません。「エモい」が恋愛と紐づきがちなのも、その辺に理由があると思います。

 

 そして、若いころというのは基本的に将来を考える必要がありません。もちろん就活やバイト、勉強など、将来の生活を考える場面はあります。しかし、「他人を養う」事は基本的に要求されません。10代で妊娠したり、20歳で起業したりして「他人を食わせなければならない」というプレッシャーに直面した人は別ですが、基本的に自分の事だけを考えていればよいわけです。それは自動的に、「別に今の生活が破綻しても、困るのは自分だけだ」という開き直りとなり、自分の生活を支える気概も薄れてしまうでしょう。

 そうやって生活や将来から遊離できるからこそ、「エモい」という言葉に耽溺することができます。物理的な自分を完全に忘れて、自分の精神的な部分でひたすら遊ぶことができるわけです。また、将来を考えなくていいので、「破滅」をロマンティックに感じることも出来てしまいます。一時的な快楽にひたすら身を預けて、このままでは将来ヤバいぞ、という実感を持ちつつも、その様な破滅に「エモさ」を感じ取ってしまい耽溺してしまうのです。

 

 私は生活からの遊離は一面的に悪いことだとは思いません。むしろ以前、日本社会は長期休暇のような「現実からの遊離」を可能にして「徹底的な怠惰をむさぼることで、アイデアが生まれるのではないか」というような記事を書いたことがあります。

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しかし、社会に出て実際に「生活」「将来」「他人を食わせる」事を考え抜いた経験がある「大人」と、その経験がない「ガキ」では、怠惰から得られるものがまったく違うとも思います。大人の側は、現実から遊離して怠惰をむさぼっても、「現実」を割とすぐに取り戻すことができるでしょう。むしろ、「現実」と「怠惰」の落差を見ることで、より新しい視点を獲得できると思います。

 しかし、「ガキ」は「現実」を知りません。そのため、現実から遊離して、ひたすら「エモい」の方向に最速で飛び上がってしまいます。そのあとに「現実」を獲得することは困難でしょう。若いころから定職に就かずにバンドや文学、お笑いの夢に向かって「最速で飛び上がっていた人」が、現実になかなか戻れない場面を想像すればいいと思います。

 しかし、才能と努力によって「最速を出すことで見られる次元を超えたエモさ」を感じ取り、表現できるようになった人には、社会は居場所を提供してくれます。それは芸術家という職業です。

 

芸術家は「社会との遊離」を社会に還元することでご飯を食べている

 芸術家は社会から遊離した存在です。もちろん定職についている芸術家もいますが、「一般人には見えない世界」を描き出し、社会に提供していることには変わりありません。芸術家というと大げさになりますが、漫画家、ミュージシャン、小説家などの大衆娯楽の提供者も含みます。

 芸術には定まった定義はありませんが、「人の心を動かす(エモい感情にさせる)」という機能があることには変わりないでしょう。つまり、芸術家というのは「人の心を動かすプロ」なわけです。芸術家は「エモさに耽溺・沈潜する過程でみた何らかの景色」を社会に提供する能力が高い人たちなのだと私は思います。センスのない一般人がエモさに耽溺・沈潜しても、大したものは見れませんし描けません。

 そして、その様な芸術家がエモさの深淵を覗き込む過程で「見て」、「描いた」景色が社会に還元されると、人々は感動します。その感動がお金を呼び、芸術家の「生活」を支えることができます。芸術家は、一般人には不可能な「エモさへの耽溺」を「お金」に変える能力を持っています。だからこそ、彼ら彼女らは「エモさ」に耽溺することが許されている、むしろ社会から要求されている人種なわけです。ただ、だからこそ、芸術家は極端な政治思想を持ったり、精神疾患になったりしてしまうのかもしれませんが。

 

 とにかく、「大人」は、現実を前にしてエモさに蓋をしています。しかし、抑えているだけだといつかあふれだしてしまいます。そこで、芸術家が提供してくれる「エモさ」でガス抜きをしているのでしょう。センスのないガキが「世の中は嘘だらけだぜイエイイエイ。ウォウォウ」と下手くそな歌詞と歌声でうたったところでムカつくだけです。しかし、ジョンレノンや忌野清志郎のような「滅茶苦茶センスのいい、大人になりきれないガキ」の歌であれば話は変わってきます。彼らの歌声は、大人が「日々心で蓋をしてきたエモさ」を程よくガス抜きしてくれるのでしょう。

 人間は社会(世間)に完全に適合できない以上、何かの「遊離」、つまりエモさがつけ入る隙を心のどこかに持っています。しかし、現実という分厚い課題を前にすると、そんな遊離にかまけていられません。むしろその遊離を押し殺し、エモさにも蓋をして制御しなければ生活が破綻してしまいます。

 ただ、むしろその遊離やエモさを爆発させ、「価値」に昇華できた一握りのハイセンスなひとだけが、「芸術家」として評価されるのでしょう。そしてだからこそ、芸術家は「エモさに耽溺すること」が許されるのです。

 

「年を食った後に遊びを覚えるのは危ない」は、ガキ時代にエモさへの免疫を着けなかった後払い

 話は唐突に変わりますが、「年を食った後に遊びを覚えるのは予後が悪い」というのは昔から言われています。永井荷風の『墨東奇譚』は1936年に書かれた文学作品ですが、ここでも「年を取った後の遊びはタチが悪い」というような話が出てきます。実際に、30代、40代になってから初めて恋愛関係の火遊びすることを覚えた人や、酒やギャンブルにはまった人が限りなく落ちていく様は簡単に想像ができます。

 この中でも特に恋愛関係の火遊びについては、若いころに「エモさ」に耽溺する機会がなく、免疫がついていないためにはまり込んでしまうのではないでしょうか。恋愛というものは喜び、悲しみ、快楽など、様々な感情が押し寄せてくるもので、それはまさに「エモい」体験です。若いうちは無秩序な恋愛や行為を「エモいよねえ」といってナルシシスティックに耽溺しても、そこまでダメージはありません。それに、時間とともに否応なく突きつけられる現実を前にして、徐々に「エモいとか言ってたけど、マジでくだらなかったよね」といって卒業することができます。

 しかし、30代、40代になって初めて「エモい」に直面し、耽溺してしまうと、予後は悪くなります。20代のうちの現実逃避はまだ取り返しがつきますが、30代40代での現実逃避は、そのあとの巻き返しが難しくなります。また、20代とちがって社会的信用を積み上げたうえでそれをぶち壊すことになるので、「バッテン」がついてしまいます。

 20代が多少オイタをしたところで、ゼロがちょっとしたマイナスになるだけです。しかし、中年がオイタをしてしまえば、積み上げた10や100が一気にゼロやマイナスになるだけでなく、「あの人はあの年になってもああいうことをする」という評判が尾を引いてしまいます。しかも本人には「エモさ」への免疫がないので、そのような破滅ですらも「なんだかこういうのも人生でありだなあ」という風に正当化してしまいがちです。自己憐憫や自己愛への耽溺というものは、麻薬のような快楽をもたらします。その様な麻薬は、麻疹かオタフク風邪のように若いうちにかかっておくべきなのでしょう。

 

 今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、できればフォローをお願いします。

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男がモテるために必要なのは、モテること、という逆説。そして恋愛工学という禁じ手

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はじめに

 「モテたい」それは多くの人々の叫びです。特に男性にとって、モテというものは死活問題になりえます。性的価値という意味で男性はどうしても女性よりも劣位に置かれています。何故かというと、恋愛市場では「イケメンのハイスペ」が多くの女性を魅了する一方で、多くの男性は女性から見向きをされないからです。イケメンが女性を総どりするのを横目に見ながら、日々画面とティッシュにお世話にされるという悲しみを背負った存在、それが平均的異常男性というものです。

 このような非モテ男性の悲しみは一般に、男性と女性の「生殖に係るコスト」の違いによって説明されます。曰く、女性は妊娠すると身体的・時間的なコストが必要なために「より優秀な生殖相手を探す」戦略をとる。一方で、男性は妊娠には一瞬の快楽というコストしか必要でないために「より多くのタネをばらまく」戦略を取る。そのため、女性が男性に求める基準が高くなるのと同時に、その基準を超えることができたハイスぺがタネをまきまくる。そして大多数の一般男性は。女性が要求する基準を越えられないために非モテの悲しみをかこつ。というストーリーがあるそうです。

 要するに、単純に性的パートナーを見つけるだけであれば、一般的に女性の方が難易度が低い、というのは事実のようです。一方で女性側の問題は、「誠実な性的パートナー」を見つける難易度が高いということでしょう。男性であれば、一旦女性のパートナーを見つけてしまえば、割とその女性が誠実に相手にしてくれるという意味では難易度が低いです。

 

 まあこういう「生物学的に根拠がありそうな話」を真に受けることは危険でもあります。とはいっても、企業が「適性検査」という名のもとに心理学・脳科学を活用した「診断」を行って、求職者を選別していることを見てみれば、チラシの裏や飲み会でのちょっとしたバカ話に生物学的根拠?を持ってくることくらいはお目こぼしをもらっていいとも思います。それをもとに「社会的な差別」をするのがダメでも、「個人的な経験則」として心の底でこっそり隠しておくくらいならいいのではないでしょうか。

 話がそれましたが、男性であれ女性であれ「モテたい」という心の叫びがあることは事実でしょう。(相手が同性であれ異性であれ)イケメンや美女に相手にされたい、という思いを抱えている人は多いと思います。私は異性愛者男性ということで、異性愛者男性に向けたアドバイスしかできないのですが、今回はその様な話をしていきたいと思います。

 

10→100よりも、0→10が難しいというのが、男性異性愛

 世の中には100人とは言わないまでも、数十人の女性と一夜を共にした男性というものは意外と多くいます。彼らは呼吸をするように女性を口説き落とし、非モテには想像もつかない放蕩三昧の日常を送っています。一方で、世間には20歳、30歳を超えても経験人数がゼロという、魔法使いやその予備軍が多くいます。この二者の違いはどこにあるのでしょうか。

 それは「最初の一人、そして10人を口説けたのか」という一点に絞られます。まあそれは当たり前の話ではあるのですが、男性にとっての経験人数は「最初の一人がやたらと難しい」という事は確かなようです。逆にそこを突破してしまえば、後は意外と簡単なわけです。むしろ、最初の一人を突破し、そこから10人程度の経験を積んでしまえばもう最強です。女性を口説く際に必要な度胸や自信、「フラれてもかまわねえ」という開き直りも出来てきます。

 

 経験人数の差には、もちろん顔の美醜や身長、社会的地位などの「スペック」の違いがあることは確かでしょう。しかし、スペックが高い男性であっても妙に非モテの悲しみを抱えている人がいることも確かです。おそらくそこにあるのは、「自分は女性に拒絶されるのが怖い」という、オドオドとした自信の無さを女性に見抜かれているのか否か、ということでしょう。

 女性というものは恋愛においてある意味でとても残酷な一面を持っていると私は感じています。それは「男性に自信があるのかどうかを感覚的に見抜く。そして自信のある男性だけを足切り突破選抜者として評価する。その選抜者のなかからより自分にとって好みの男性を選ぶ」というような側面です。つまり、自分に自信がなければその「第一次選抜」すら突破できないわけです。

 自分に自信がない男性というものは、その「第一次選抜」の時点で足切りされてしまうため、その先に行くことすらできません。まれにとんでもないイケメンだったり、たまたまその女性にとってストライクゾーンど真ん中だったりすれば第一次選抜を無試験で合格できるのですが、それは稀な事例です。

 

 つまり、男性が女性を口説く際に基本的に求められるのは「最初の数人を口説くことができたことに支えられている、自分に対する自信。女性に拒絶されてもいいやと思える自信。」なのです。これでは、非モテが女性を口説くことができるわけがありません。一方でモテる男性はその自信を持っているので、次々と女性が課す第一次選抜を突破していくわけです。

 この「自信」は体からにじみ出るものなので、非モテ男性が真似をしようとしてもなかなか難しいものがあります。ちょっとした言動やしぐさから女性はこの自信の有無を見極めます。そしてこの自信は経験人数を重ねれば重ねるほど磨かれていきます。そのため、「モテる男はさらにモテるようになり、モテない男はさらにモテなくなる」というスパイラルが発生してしまうのです。

 このスパイラルをプラスの方向にもっていった男性は強いです。モテがモテを呼ぶというような、最強の状態になっていきます。人気が人気をよぶという状態がありますが、まさにその様な状態です。一方で非モテ男性は非モテ非モテを呼びます。人気がないコンテンツが、人気がないという一点だけで見向きもされなかったりすることと似ています。

 

 つまり、男性にとっては最初の数人の経験が、女性を口説くうえでは何よりも必要になるということです。まるで救いようがない話です。しかし、非モテ男性が逆転?勝利を収めるための禁じ手があります。それは「恋愛工学」です。

 

「恋愛工学」という禁じ手

 恋愛工学というものは恐ろしい理論です。おそらくこれを完璧に習得した男性はセックスに困ることはないでしょう。しかしその一方で、健全な恋愛は難しくなると思いますし、最悪の場合性犯罪者ということで逮捕されてしまうかもしれません。恋愛工学とは、女性を徹底的に「攻略すべき対象」として見ることで、工学的アプローチによって経験人数を稼ぐというような考え方です。その考え方には参考になる部分もありますが、人間としての心を失うかもな、という部分もあります。

 参考になるのは、「女性は確率的に口説くものである。一人の女性に執着するよりは、たくさんの女性を口説け」というものです。非モテは何かあるたびに「この人が運命の女性だ」と錯覚してしまいます。まるで卵から生まれたヒナが動く物体を親と思い込んでしまうように。しかし、恋愛工学ではそれを戒めています。女性を口説き落とせるかどうかは確率の問題である以上、とにかく数を口説いて期待値を高めろ、というわけです。

 実際に、モテる男性はフラれることを恐れずに多くの女性を口説いています。いちいちフラれる事を恐れていては何も始まりません。それに、口説く段階で一人の女性に執着しすぎるのも、相手の女性に「必死過ぎてキモイ」という印象を抱かれることは確かです。20歳前後の女性であれば必死に口説くうちにほだされる場合もあるかもしれませんが、自由恋愛に鍛え抜かれた20歳半ば以降の女性にはなかなか通用しません。映画や漫画のような純粋な恋は、現実ではあまりないからこそ映画や漫画になるのです。

 理想的なフィクションに固執して非モテの悲しみを抱え、怨嗟をため込むよりは、いっそ確率的にアプローチしてしまえというのは、プラグマティックな意味で一つの模範解答だと思います。

 

 一方で、恋愛工学のテクニックの一つに「ディスり」というものがあります。私はこれこそ恋愛工学の要点だと思います。ディスりとは、その名の通り女性を軽くディスることで精神的優位に立つというものです。このテクニックによって「男性(自分)が上、女性(相手)が下」という状況を疑似的に再現することで、女性を口説きやすくなるということです。

 私はこの「ディスり」というテクニックを初めて知ったとき、世の中には恐ろしいことを考えるひともいるものだなと思ったことを覚えています。ディスりによって「精神的優位」を演出し、「自信」を演出することで、女性の「自信がある人を選抜していく」という恋愛スタイルをハックしているのですから。まさに人間に対する工学的アプローチであり、「恋愛工学」という名前は伊達ではないなと思いました。

 しかし、そのようなテクニックは強い副作用も伴うものでしょう。恋愛工学を究めて女性を口説けるようになっても、おそらく心が満たされることはないと思います。本当の自分をさらけ出して、ダメな自分もいい自分も全肯定してもらえるというような「無償の愛」が、遠ざかってしまうからです。

 無償の愛などいいから、俺はとにかく何でもいいから愛が欲しいんだ、というのであれば恋愛工学は有効でしょう。それに、一旦恋愛工学で女性の口説き方を学ぶのもいいと思います。しかしその先には、「無償の愛を手に入れるために、せっかく身に着けた恋愛工学という仮面を脱ぐ」という必要性が出てきます。恋愛工学を実践しているうちは自己開示をすることができません。恋愛工学という仮面を脱ぎ捨て、自己開示ができるようになって、はじめて無償の愛が手に入るのだと思います。

 

 しかしまあ、恋愛工学を実践するか、生まれつきのモテ要素を生かすかしてモテるようになるとどのような状態になるのか、それを知っておくのも悪くはないと思います。それを、私の体験を交えて話したいと思います(なお、この話で私がモテることはありません。あくまで、私が「モテる男」と「それに対してメスの目線を送っていた女性の話」を書いていきます)。

 

「モテる男は、よりモテる。モテない男は、よりモテない」を実感した話

 モテる男はますますモテます。これは真理だと思います。何かの小説に「男の色気は、女を抱く度に磨かれていく」というような一節があったことが記憶に残っていますが、まさにこれは的を得た格言だと思います。私の経験でも、それまで非モテだった男性が女性を知った瞬間に自信を得て、女性から「メスの目」ともいうもので眺められていた場面を見たことがあります。また、どう考えてもヤバいやつなのに、モテるというだけでモテていた男性を見たこともあります。

 私にはある友人がいます。彼は不細工というわけでもないのですが、特段イケメンというわけでもありません。そして長いこと非モテ街道を驀進していました。しかし、彼はある夏にマッチングアプリで三人の女性と関係を持ったそうです。恋愛工学の手法を使ってみたといっていました。それを彼は同級生の男女混合の飲み会で恥ずかしそうに語っていました。

 それだけならまだいいのですが、問題は女性陣の反応です。「えー。やだー」とかいいながら、完全にメスの目になっていたのです。なんとも表現できないのですが、「ここで彼が口説いたら、この女性たちはついていくのかもしれない」という直観のようなものがありました。結局彼はその女性たちを口説くことはなかったのですが、それは友情を優先させただけなのかもしれません。

 

 ほかにも、同じような「メスの目」を感じた出来事があります。バイト先での話です。私のバイト先には、「あいつヤバいクスリやってんじゃね?」という噂がある男性がいました。しかし彼はイケメンで、何人もの女性を泣かせてきたような男でした。

 そんな彼についてバイト仲間の女性と話しているとき、彼女が妙に彼を擁護しているのに気づいたのです。そして酒に酔った彼女は、「ぶっちゃけあの人となら一線超えてもいいかも」という爆弾発言をしました。まさにその時彼女は「メスの目」をしていました。普段の彼女は決して感情的ではなく、論理や道理を優先させる女性でした。しかしそんな彼女でも、「モテる男の色気」にはかなわなかったようです。男性が下半身で動くとはよく言うけれど、女性だって割と下半身で動く時があるんだなと思った事を強く覚えています。このように、人間はなんとも残酷な一面をのぞかせる時があります。

 

 モテる男というものは本当に何もかもをかっさらっていきます。女性との関係だけでなく、就活や仕事の成果など、彼らは「あふれ出る自信」によって、様々な対人関係で成果を出していくのです。こうも残酷な世界を目にしたとき、世の非モテ男性が恋愛工学という禁じ手に走ってしまうのは、仕方のないことかなとも思いました。

 この辺でこの記事は終わりにしたいと思います。ツイッターもやっているので、是非フォローをお願いします。

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