全てフィクションです。

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文系知識は戦略(大局)を、理系知識は戦術(局所)を担当するのではないか

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はじめに

 文系と理系の区別、これほど下らないことはないかもしれません。「学問を究める」という上では、最終的に文系と理系の区別などなくなってしまいます。例えば、文系を究めるにしても、統計学や論理学(数学とも言える)の知識は必要になってきます。また、理系を究めるにせよ、「社会の中でその理系知識がどういう立ち位置にあるのか」を明確にするために、文系の知識が必要になってきます。

 しかし、社会を回すうえでは文系と理系の区別をすることには一定の合理性があります。人によっては文系的な文献解釈、言語概念操作の感覚が優れている人がいますし、逆に理系的な数的概念の操作や工学的探究に優れている人がいます。その様な個々人の特性に合わせて教育をするためには、文系と理系に分けてしまえ、というのも納得できます。また、現在の産業社会が資本主義とテクノロジーの両輪で回っている以上、資本主義のシステムを担当する文系(会計士や弁護士、事務職など)と、テクノロジーを担当する理系(技術者や研究者など)に分けてしまった方が、経済を回すうえでも都合がいいことも事実でしょう。

 ただ、文系と理系の区別が無用な対立を起こしている場面があることも事実です。文系の方は理系を「情緒や現実を理解しない奴ら」とさげすみ、理系の方は文系を「口先ばかりで実用的なことができない奴ら」とさげすむ場面があります。

 

 そんな文系と理系の対比ですが、あえてその構図にのっかった上でこの記事を書いていこうと思います。そしてそれは、「文系知識は戦略(大局)を、理系知識は戦術(局所)を担当するのでは?」という事です。

 ケインズという経済学者が、「どんな狂気じみた独裁者も、結局は狂気じみた学者の文章に操られているだけだ。ある意味で一番影響力が強いのは狂気じみた文章を書く学者だ」というような事を書いています。この「狂気じみた文章で、狂気じみた独裁者を操る」は、まさに思想を生み出すという文系の特徴を表しているでしょう。一方で、その狂気じみた思想を実現するための「生産力」は理系知識なしには得られません。今回は、このような話についてしていきたいと思います。

 

(注:この記事では、「文系的思考=定性的思考」、「理系的思考=定量的思考」という前提に立つ箇所が多いです。定性的思考とは主に言語によって物事を考えることで、定量的思考というのは主に数によって物事を考えることです)

 

文系知識は「人権」「民主主義」などの「当然すぎて気づかない前提」を生み出す

 「人権」や「民主主義」、「宗教に対する理性の優越」ということは、現在では当たり前になっています。むしろそのような価値観に対して疑いを抱くと、「変な思想を持っている人」というレッテルを貼られかねません。新興宗教を信じて理性や科学を信じないならまだしも、人権や民主主義といった概念を公然と非難するのはなかなかの覚悟が必要になります。

 しかし、人権のようなこれら概念は、結局概念でしかありません。神様や仏様といった「概念」を信じない人がいるように、人権や民主主義、理性といった「概念」を信じない人がいてもおかしくはありません。しかし、人権や民主主義、理性といった概念は絶対的な「法則」として、現代社会に埋め込まれています。

 文系知識、より詳しく言うと「文章に言葉で書かれた、定性的な知識」は、人間社会がよって立つ「当然すぎて気づかない前提」を作り出します。昔は聖書や経典、論語が絶対的だったことと同じく、現在は「人権や民主主義について書かれた、リベラル思想の経典」が絶対的な前提として社会に君臨しているのです。

 

 これは結局、人間が「言葉で社会を運営している」動物だからでしょう。人間は本来的に数学より国語の方が得意なのだと私は思います。幼稚園児でも文法規則を自然と理解して喋ることができます。一方で数学(算数)の規則については、学校で「人工的な算数教育」を受けなければ、足し算すらおぼつきません。このように人間が「数学的規則(定量的思考)より言語的規則(定性的思考)」に強いという特徴は、人間が運営する社会の性質を規定すると私は考えています。それは、「社会は理系知識ではなく言葉(文系知識)で運営される」という性質です。

 そして、言葉という道具を使って人間は「神仏」「人権」「民主主義」などの定性的な概念を作り出し、それを基に社会を運営していきます。今までのところ、社会が「微分積分」や「DNA」、「量子力学」などの理系知識に基づいて運営されたことはありません。それは理系知識の発見がここ数百年の話であることも関係しているのですが、文系知識の方が理系知識よりも「古い」という事も示しています。「古い」文系知識は、理系知識と比較してより深く「人間の本能的な部分に入り込む」のでしょう。

 

 話を人権や民主主義に戻しますが、これらは別に絶対的な概念でも自然法則でもありません。むしろ概念という意味では道具の一種であり、使う人によっては悲劇をもたらします。ポルポトスターリンなど共産主義の悲劇は有名ですが、「人権」という概念で人が殴られる場面に私は遭遇したことがあります。

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 人権や民主主義、理性などの概念は長い時間をかけて優秀な思想家や実務家が磨いてきた概念でもあります。そういった意味では、このような概念は「洗練されている」のです。しかし、所詮は概念でしかなく、それを妄信することはカルト的だと感じます。文系知識とは、このような「人間の思考を支配できる概念」をつくる力を持っています。そしてそれは「当たり前すぎて気づかないし疑えない絶対的前提」を作り出すのです。これこそが、文系知識の強みでしょう。文系知識とは、「絶対的前提を作ることにより、社会の戦略的な資源分配を決定する」という、恐ろしい力を持っているわけです。

 一応言い訳をしておきますが、私は「人権」や「民主主義」という概念は必要なものだし、守るべきものだと個人的には思っています。公民の教科書に書かれている歴史は、これらの概念が孕む狂気を社会的手続きにまで落とし込み、人びとの生活を守るための武器であり盾へと洗練させてきた歴史です。このように洗練された武器は、簡単に手放して良いものとは思いません。

 このように、文系知識が持つ力について語ってきましたが、文系知識だけで世の中が回っているわけではありません。次に、理系知識が担当している部分について見ていきます。

 

理系知識は「役に立つ」一方で、大局的な思想に大きく制限を受ける

 理系知識は役に立ちます。電磁気学情報科学、化学などなしでは、現在の豊かな生活は成り立ちません。また、数学という厳密な思考言語は、人間が持つ科学知識をより抽象化して一般性を持つものへと形作ることができます(そういう意味では数学は究極の文系知識と言えるかもしれませんが、ここではざっくり理系としておきます)。

 その様な強力な理系知識ですが、実は一つ重大な欠点を抱えています。それは「社会から許可されなければ、その知識を活用するどころか探求することすら不可能になる」という点です。進化論や地動説、そして最近の遺伝子工学など、「社会の側の都合」で沈黙させられてきた理系の研究には枚挙にいとまがありません。理系知識とは、社会が持っている大局的な思想に大きな制限を受けるわけです。

 そもそも、理系知識が深まったのは「科学」という特殊な思考法、アプリケーションとでもいえる方法論が社会に受け入れられたためです。科学を社会の側が受け入れなければ、理系知識は活かされるどころか抹殺されてしまうのです。

 

 理系知識が社会の側の都合でゆがめられた事例としては、「ルイセンコ論争」があるでしょう。これはルイセンコというソ連の研究者が、「後天的に獲得した形質も遺伝する」という誤った理系知識(思想)を発表したことに端を発する騒動です。この思想はソ連の上層部に気に入られ、「社会的に力を持って」しまいました。その結果、ソ連の生物学はゆがめられ、正統な理系知識の探求が困難になってしまったそうです。

 理系知識の長所に、「この宇宙であれば、どこでも通用する論理を打ち立てることができる」というものがあります。それは確かにすごいことですが、社会の側がその論理を受け入れるのかどうかは別問題です。しかし逆に言うと、社会の側に受け入れられている理系知識を勉強することは、手っ取り早く高収入を手に入れる道へといざなってくれます。

 現在社会の側に受け入れられ、むしろ要求されている理系知識の典型として、情報工学が挙げられます。偏差値がそれほど高くない地方大学の情報科学系の学部で4年間、修士課程で2年間の計6年間を情報工学の習得に費やせば、基本的に就職先に困ることはありません。また、機械工学や建築学、医学なども社会の側から要求されている「理系知識」でしょう。

 

 文系知識が大局を決定するのは事実ですが、じゃあ文系知識を究めたらだれもが社会の大局を決められる立場になれるのかというと違います。むしろ、文系で大学院の博士課程まで進んで、そのあとに就職が無くて発狂してしまい、精神病院に「転院」してしまう事例もあるそうです。理系の博士課程も厳しい状況であることに変わりはないでしょうが、「大学院の博士課程で神学論争についてラテン語で研究していました」というような人よりは一般企業に就職しやすいことは確かでしょう。

 そういった意味では、理系知識は「地に足がついている」と思います。大所高所から言論をぶちまけ、一部の論客だけが地位を得る文系と違って、理系知識を修めた大多数の人はその知識を活かした仕事に付くことができます。ただこれは、「文系知識は大将を作り、理系知識は兵隊や幹部を作る」ということなのかもしれません。社会の根本的な部分が法律や会計といった文系知識で回っている以上は、理系知識だけでは少し心もとないことも事実でしょう。

 

結局どっちも大事だよね、というありきたりな結論とその限界

 これまで文系知識と理系知識について(私の狭い見識のなかで)議論してきましたが、結局「良き市民」たるには、どちらの知識も必要だということでしょう。文系知識だけを磨いて理系知識がスカスカだと、疑似科学の餌食になって大金や名声を失ってしまいます。逆に理系知識だけ磨いて文系知識がスカスカだと、気づかないうちに反社会的な活動に手を貸してしまったり、詐欺や金融陰謀論などにハマりかねません。

 また、「人の上に立つ」事を目指すのであれば、文系知識と理系知識の両立はより求められると思います。組織で上に立ち、大きな決断をする上では、致命的な間違いを減らす必要があります。それは法的な間違い、会計的な間違い、科学的な間違いの全てを含んでいます。科学的知識を欠いているがゆえに、疑似科学製品を売り出してしまう経営者を想像すればよいでしょう。

 かといって、理系知識だけだと「スキルの切り売り」だけになりかねません。法律や会計といった「社会を動かしているルール」が理解できなければ、スキルを売る以外にできることが限られてきます。事業売却やストックオプションなどの仕組みを理解していなければ、ただ平社員として「再生産分の賃金」しか与えられないのですから。

 

 とはいっても、高度に学問が発展した現代において、文系知識も理系知識も深めるというのは無理があります。膨大な量の文献を読み、論文まで目を通し、メタ分析もして「真理」を探求するというのは、余程の暇人か、余程の超人でなければ無理でしょう。そういった意味で、「文系も理系もどっちも大事だよね」という発想は理想論であり、限界があります。

 知識が氾濫しすぎて、「誰が本当の事を言っているのか分からない」という混沌とした状況にあるのが現代社会です。おそらく、このような状況で重要になるのは「本当のところは分からないけれど、こいつが言うことなら信用できる」というような、人間観察力のようなものなのだと思います。成功している政治家には科学的知識のかけらもなさそうな人がいますが、彼らは「科学的知識を持っている官僚や有識者」を見抜いて信頼するのが上手なのでしょう。「自分の理性ですべてを考える」というのは時代遅れなのかもしれません。むしろ、「信頼できる人間を見分ける経験則(ヒューリスティック)」を磨くということが、情報があふれるこれから先の時代に「良き市民」たる要件になるのかもしれないと思いました。

 

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