全てフィクションです。

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「永い生」が、マルチ商法や情報商材などの「新しいカルト」を生んだのではないか

はじめに

 マルチ商法情報商材などに新興宗教的な匂いを嗅ぎつけたことがある人は多いでしょう。というより、そのような商売の養分になっている人を「〇〇信者」と例えることがあるように、陳腐な比喩表現でしかないもしれません。

 しかし、じゃあなぜそのような「新興宗教」がはびこり、オウム事件のように伝統的宗教の皮を被った「ある意味正統な新興宗教」が流行らないのでしょうか。まあそれはオウム真理教をはじめとする新興宗教が暴れ回ったことへの忌避感という理由もあるでしょう。しかし、それだけではない気もするのです。

 伝統的宗教が「生と死」というテーマを扱うことに長けていたのに対して、マルチ商法情報商材などの「新形態のカルト」とでもいうべきものは、「永遠につづくかと思われる生への不安」を扱っているように私には思われるのです。

 社会が安全になり、医学が発達したことによって「死」が縁遠い存在となったことは喜ばしいことです。しかし、それは同時に「この人生は永遠に続くのではないか」という不安を呼び起こすことになります。そのような永遠の生をただ貧乏に惨めったらしく過ごしたくない、会社や社会に家畜同然に扱われて生を実感できない人生を送りたくない、このような不安の方が現代人にはより切迫感を持つのでしょう。

 では、この生をより鮮やかにするために、死をより身近に感じたいのか、といえばそれもまた違います。できることなら死は遠ざけておきたいというのが人情ですし、現代はそれができる環境が整っています。かと言って、永遠と見間違えるような長くて安全な「生」だけを与えられても、その永遠の時間から恐怖を覚える、これも人情だと思います。例え今は良くても、その永遠の時間のうちに没落してしまう自分を想像することは容易いことですし、恐ろしいことでもあります。そこにつけ込んでいるのが、マルチ商法情報商材などの「新形態のカルト」なのでしょう。今回はそんなことについて話してみます。まずは、伝統的宗教がなぜ昔は力を持っていたのかを私なりに考察して、その後に「新形態のカルト」への考察を進めていきます。

 

伝統的宗教が得意としていたこと

 伝統的な宗教が得意としているのは、「生と死の間で悶え苦しむ人々を救う」ということです。仏教であれば「今世で功徳を積めば来世は救われる」、キリスト教であれば「この世で神の教えを実践すれば天国に生まれ変わることができる」といった具合に、とにかく「生と死」が中心的なテーマになってきます。極論をいえば、伝統的宗教において「生と死」以外は瑣末なテーマに過ぎないのかもしれません。

 伝統的宗教が力を持っていた時代というのは、とにかく生と死の境界線が曖昧でした。幼児死亡率は高く、大人であっても流行病や栄養失調であっさりと死んでしまいます。戦争や事件に巻き込まれて死人が出ることも日常茶飯事です。

 このような時代では、とにかく恐ろしいものは「死」でした。周囲の人間がバタバタと死んでいく中で、心の平静を保つためには神様なり仏様なりにすがり、運命の不可思議と残酷さから目をそらすことが必要だったのでしょう。そうして初めて人々は「死」という究極の恐怖から目を背けることができ、日々の生活をなんとか営むことができたのかもしれません。

 そのように考えれば、現代では伝統的宗教が力を失った理由もある程度説明ができるでしょう。現代はとにかく日常から死が排除されています。新型感染症で大騒ぎにはなっていますが、基本的には高齢者が時々亡くなるくらいで、若い人がバタバタと倒れていくというわけではありません。一方で江戸時代までは天然痘コレラ、そのほかのさまざまな疫病や栄養失調で若い人でもバタバタと倒れていくのが普通の光景だったと言います。

 これほど「死」が縁遠いものとなった時代では、「生と死」というテーマは影響力を失います。葬式でも、稀に若くして亡くなってしまった人の場合は悲壮感が漂いますが、大往生した爺様婆様をあの世に送り出す葬式であれば、壮行会のような快活さすら漂っています。

 そのように、「生と死」が深刻な問題ではなくなった現代では、「生と死」を扱うことに長けている伝統的宗教が力を失うことも道理と言えるのかもしれません。

 

「死への不安」が消えたからこそ現れる「生への不安」

 さて、死への不安は消え去りました。じゃあ人間は生を謳歌できるのかというとそうもいきません。目的も持たず、ただ時間を資本家のために捧げて暮らすだけの人生というのも、考えてみれば馬鹿馬鹿しいものです。しかも死が社会から注意深く排除されているために、「ひょんなことで退場する」ことも現実的ではありません。

 しかも、人生100年とか言われると、もはや「死への恐怖」は「老いへの恐怖」や「貧乏への恐怖」へと移り変わります。老後に働けなくなった時に資産がなかったらどうしよう、社畜や非正規雇用ニートのままただただ人生を空費してしまったらどうしよう、という不安がムクムクと頭をもたげてくるのです。

 「死」という深い谷や急峻な山が取り払われた結果、現代人は見通しの良い平原にポツリと置かれているようなものなのでしょう。果てしない平原の先の地平線は美しいものではありますが、「どこまで行けばいいのだろう」というなんとも言えない恐怖を呼び起こすものでもあります。

 そのような、「際限もなく遠くが見えるからこその不安」というものに、現代人は苛まれてしまう定めなのかも知れません。見晴らしだけはいいが、かといってどこまで行けるのかわからない。自分にその平原を歩くだけの能力があるのかもわからない。そういった不安です。

 さて、そこに救世主が現れます。「私についてくれば、資産を作ることができ、豊かな老後も送ることができ、目的を持って自己実現が叶う人生を送れますよ」と囁く教祖です。まあそれこそが、マルチ商法情報商材なのですが。

 生への不安という(人類史上)特殊な不安に苛まれている現代人は、他に縋る先を見つけることはできません。生まれつき高い能力を誇り、自分が平原を踏破できる自信がある人は、教祖に縋らなくとも生きていけるでしょう。また、平原を踏破できる自信はなくとも、精神力が強い人は胡散臭い教祖に近寄らずに済むのでしょう。

 しかしそうではない平凡で、精神力が弱い人にとっては、新しい教祖についていくことで初めて、「永遠の生への不安」が解消されるのだと思います。新しい教祖は平原を踏破するためのノウハウやコツを教えてくれると言います。まるで伝統的宗教が「死後の世界」を語るように、新しい教祖は「現世の見取り図」を語ります。それが嘘なのか本当なのかはどうでもいいのです。とにかく、そこに物語があり、不安が解消されればいいわけです。

 

「生への不安」を払拭しようとしても、自己責任論しか出てこない

 じゃあどうすれば「生への不安」を解消できるのでしょうか。単純な話です。自分がその永遠に広がるかのような平原を踏破する能力か精神力を手に入れればいいだけなのです。しかしこれは結局のところ幼稚な自己責任論でしかありません。このような幼稚な自己責任論しか出てこないところが、現代社会が抱えている独特な病理なのかもしれません。

 伝統的社会というのはある意味単純な方法を実践すれば「勝者」になれる社会でもあったと思います。それは「とにかく長生きをする」です。長生きさえしていれば、長老だ古老だともてはやされます。そのような状況では「永い生」は別に不安でもなんでもありません。むしろ、生きながらえることは栄光でもあったのです。

 しかし、現代は生きながらえても特に栄光が与えられることはありません。流石に世界最高齢になればテレビ局が取材に来ますが、そこまで生きているのも流石に現実的ではありません。それに、一生フリーターで過ごして、最後の最後だけテレビ局に取材されるというのも、何か惨めな気がします。老人がありふれている現代、長生きは特に喜ばしいことでもなんでもないのかもしれません。むしろそれは、生への不安を掻き立てるだけでしょう。

 死が恐ろしいものではなくなったからこそ、生が恐ろしくなった。そして生への恐ろしさが空回りして情報商材マルチ商法に手を染め、肝心の生を台無しにしてしまう。そして借金によって「自主退場」を考えるようになる。これほど滑稽な時代もないかもしれません。

 じゃあその不安から抜け出すにはどうするか、とにかく自己責任論的に、目の前の物事に取り組んでいくしかないのでしょう。これもまた、なんとも言えない後味の悪い結論ではありますが、そうするしかないのが現代の病理なのでしょう。全ての責任を社会に押し付ける無敵の人が現れるのもむべなるかな、です。

 

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