全てフィクションです。

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国家の脆さを忘れてしまった日本人は、近年の騒動で目を覚ますか

はじめに

 国家とは脆いものです。竹島問題や尖閣諸島問題など、国家の領域のはざまでは常に問題が絶えず発生し、紛争当事者の双方にとって国家の領域は脅かされます。また、政治体制も不変ではありません。日本は約80年前の敗戦でガチガチの軍国主義から平和主義に一気に方向転換をしました。また、その80年ほど前の明治維新では、武家社会から近代中央集権国家に一気に方向転換をしています。

 このように、国家とは実は流動的なものなのです。現在の日本人は敗戦による方向転換から約80年もたっているために、このような国家の流動性というものを忘れているのではないでしょうか、そして、近年の国際情勢はそのような日本人の「素朴なまでの国家の硬直性への思い込み」を刺激するのでしょうか、というのがこの記事での趣旨です。

 しかし、日本人も敗戦後に一貫して国家の硬直性を信じていたわけではありません。冷戦終結度に日本人が急速に国家の流動性を忘れてしまったことを、「攻殻機動隊」「パトレイバー」「サイコパス」「アキラ」の4つのアニメ作品をもとに考察してみたいと思います。

 

国家は流動的である。

 国家とは何か、という問いを立ててしまうと、それこそ一冊の本がかけてしまいます。しかし、私はその方面の専門的な勉強をしたことはありませんし、厳密な議論を行える素養も持っていません。とりあえずここでは、「国家とは共同体の一種である」という素朴な定義から始めてみようと思います。

 共同体とは流動的なものです。構成員は絶えず入れ替わり、共同体の理念や方針も変化します。場合によっては共同体そのものが消滅してしまったり、まるで違う性格の共同体にいつの間にか変化してしまったりすることもあります。ひとまずここでは、国家は共同体であり、共同体とは流動的なものである、つまり、国家は流動的なものだと言うことができるでしょう。問題は、国家の流動性はどのような場面で観測できるのか、ということです。

 まず、わかりやすい例で言うと、戦争や革命などで消滅してしまう、ということがあるでしょう。第一次世界大戦ではオスマン帝国(現トルコ)が消滅しました。ロシアは革命によってソ連となったが、そのソ連も消滅してしまいました(実際にはソ連は「加盟国がゼロ」なだけで、国際法上は今も存在しているらしいですが)。オスマン帝国ソ連のような大国であっても消滅することがあるのですから、中小規模の国家が消滅することは自明の理とも言えてしまいます。

 

 また、国家はその領有域を変化させることもあります。ドイツやオーストリアは20世紀初頭までは広大な領土を誇っていましたが、現在はその領域は縮小しています。現に日本も、大日本帝国時代は最大でシンガポールオセアニアまで領有域を拡大させています。しかし敗戦によってそれらの海外領土を失い、あわや沖縄や北海道も失う可能性がありました。国家の領有域が変化する際は大体戦争が関わってくるため、このような話題はセンシティブでもあります。そのため、国家の領有域の変化は大っぴらには議論されず、人々の認識からも零れ落ちてしまいがちです。

 そして、国家はその性格や政治体制を意外なほどあっさりと変えてしまいます。ここで分かりやすいのが日本でしょう。日本は19世紀後半に封建的・地方分権的な武家社会から、明治維新を経て一気に中央集権的な近代国家へと生まれ変わりました。その後は大正デモクラシーなど民主主義の風が吹いたことはありましたが、最終的に軍部とそれを支持する民衆が暴走して無謀な戦争へと突き進むことになりました。そして敗戦に打ち沈んだものの、アメリカの庇護の下で急速に経済発展を遂げ、民主主義を実践する経済大国へと生まれ変わりました。日本の場合とくに興味深いのが、そのような急激な変化が70年から80年の周期で起きていることでしょう。

 また、国家の性格や政治体制があっさりと変わってしまった例には韓国や台湾があります。韓国は最近では民主主義の国ですが、1960年代から軍部独裁で、民主化したのは1980年代です。台湾も同様で、1980年代までは国民党による一党独裁体制でした。「韓国や台湾が独裁国家だった」という事実は、現在の20代以下の人々にはなかなか想像ができないでしょう。

 

 このように、国家というものは意外と流動的で、脆いものです。しかし、最近の日本人、特に若い世代はそのことを忘れているような気がしてなりません。今の「日本国」という国家が永遠に続くものだと素朴に信じ込んでいます。それはまるで、バブル期までの日本人が「会社は永遠に続く」と素朴に信じていたこととダブって見えます。

 そのような「国家の永続性への素朴な信頼」というものを、「サイコパス」というアニメから考察してみたいと思います。そして、実は日本人も以前は「国家は流動的・脆いものである」ということを認識していたということを、「攻殻機動隊」「パトレイバー」「アキラ」の3つのアニメ作品から示してみます。

 

アニメから見る、「日本国」の永続性への信頼の歴史

 「サイコパス」というアニメの名前を聞いたことがある読者は多いでしょう。個人の犯罪傾向が「サイコパス」という犯罪係数で測定され、その数値をもとに逮捕や処刑が可能な近未来の日本を描いたアニメ作品です。舞台中では様々な人間ドラマが繰り広げられ、それらが倫理的な問題と絡み合っているのが「サイコパス」の面白さです。しかし、本稿では少し異なる部分に焦点を当ててみようと思います。それは、「サイコパス」の劇中では、日本の国家体制が(少なくとも第1期、第2期では)揺らがない、ということです。

 劇中では統治機構への疑義などが挟まれ、実際に統治機構への攻撃も行われます。しかし、クーデターなどが計画されることはなく、「日本国」という国家体制が揺らぐことは基本的にありません。むしろ、「日本国が揺らぐような政変」は、ストーリーをややこしくさせる要素ということで意図的に無視されているような感想すら抱きます。「統治システム」や「社会運営システム」への疑義が挟まれるのみで、「日本国をぶっ壊す!」といった感じのキャラはでてこないのです。

 私はこの「サイコパス」というアニメを見ていて、現在の日本人は本当に平和を満喫しているという印象を受けました。あまりにも平和に慣れ過ぎていて、「国家の体制が実力によって変更される」というストーリーが荒唐無稽に感じられるのでしょう。そのため、「サイコパス」では、国家体制への攻撃は描かれなかったのだと思います。

 

 「サイコパス」は日本を舞台にした近未来SF作品です。しかし、日本を舞台にした近未来SFではどの作品も「日本の国家体制」を硬直的に描いているのかというとそうでもありません。「アキラ」「攻殻機動隊」「パトレイバー」など、20世紀の終わりに作られた近未来SFでは、どれも日本の国家体制が揺らぐような大事件が大きく取り扱われています。

 「アキラ」や「攻殻機動隊」では、第三次世界体制によって国家機構が変容してしまった「日本」が出てきます。また、「パトレイバー」では、クーデターや体制転覆を狙う勢力が出てきます。これらの三つの作品と「サイコパス」の違いが浮き彫りにするのは、20世紀の日本人と21世紀の日本人の「感覚の変化」だと思います。日本国の体制が揺るがされることが描かれた三つの作品は20世紀の作品であり、日本国という国体が不変のものとして描かれている「サイコパス」は21世紀の作品です。つまり、前者では国家が「流動的で脆いもの」として描かれているのに対して、後者は国家が「固定的で頑丈なもの」として描かれています。この「作品が作られた時代の違い」が、これらの作品における「国家観」に影響しているのではないでしょうか。

 

冷戦期に国家の持続性を常に問われてきた日本人、冷戦後に素朴に国家を信じ続けた日本人

 思えば、「アキラ」「攻殻機動隊」「パトレイバー」の制作陣というのは、冷戦時代に物心がついて、独特の「国家に対するプレッシャー」を感じて育ってきた人々だったのかもしれません。国家転覆とまではいかないものの、共産化や東側による軍事侵攻、マルクス主義の影響による「国家観への揺さぶり」という社会的影響の下に育ってきた世代なのでしょう。

 そんな彼らが描く作品には、当然「日本国という国家は盤石でもなんでもない。もし何かの「衝撃」があれば、脆くも崩れてしまう可能性があるものだ」という意識があったのかもしれません。それに、彼ら製作陣の親世代というのは第二次世界大戦を経験した世代でもあり、なおさら「国家」に対する感性が鋭かったのでしょう。また、視聴者の側もその様な人々が多く、支持を受けたのかもしれません。

 しかし、「サイコパス」は2010年代に描かれた作品です。製作陣たちは冷戦終結から20年がたち、おそらく「東側からの揺さぶり、思想による揺さぶり」をリアルに経験している世代ではありません。むしろ、フランシス・フクヤマが提唱した「歴史の終わり(冷戦終結自由主義と資本主義が勝利した。これからはグローバル化自由主義の波が全世界を覆い、世界は楽観的な発展のみを続ける、というような思想)」を真に受けて育ったであろう世代です。

 事実、冷戦終結後に学校教育を受けた私は、「日本国という国家が揺さぶられる」事を前提とした教育は受けませんでした。現状のグローバリズムと資本主義、自由主義、民主主義の良い側面だけを打ち出した、非常に楽観的な「公民教育」を受けたという記憶があります。

 

 このような、世代間の感性の違いが、アニメ作品に描かれた「日本国」にも現れているのではないでしょうか。しかし、近年の国際情勢はどうにも「国家の盤石性」を揺るがしつつあるようです。戦争だけでなく、今までは地下に潜んでいたポピュリズムが興隆し、「国家とは何か」「国家とは固定的なものなのか」という問いがリアリティをもって迫ってきます。

 このような状況で、日本人はいままでのように、「日本国という国家は固定的なものである」という素朴な信念を持ち続けることができるのでしょうか。それとも、何か別の「国家体制に対する深刻な影響」を受けて、何か別の感性を持つようになるのでしょうか。

 

 しかし、これは今後2、3年では特に大きな変化はないと思います。ただ、10年、20年、30年とたった時、何か重大な変化が起きていてもおかしくはないと、個人的には思います。もちろん、私は日本に生まれ、日本語をしゃべって日本文化に適応して育ってきたので、日本という国に愛着を感じています。また同時に、日本に住む外国人の方も社会に包摂していくべきだと考えています。しかしそれでも、現状の日本人が「日本国という国家」にたいして抱いているであろう素朴な信仰に、危うさを覚えずにはいられないのです。

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