全てフィクションです。

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オッサンの取り扱い説明書。オッサンの生態とそのハック方法について

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「オッサン」。これほど疎ましい存在はないかもしれません。ただ面倒くさい存在なだけならばいいのかもしれませんが、何かと組織の中で力を持っているのはオッサンです。面倒くさいが、付き合わなければなりません。しかも地雷がどこにあるのか分からず、面倒くささに輪をかけています。単に面倒くさいだけのオッサンならいいのですが、オッサンは組織や共同体で実力を持っていることも少なくありません。

 そのため、物事をうまく進めようとするとオッサンに対処する必要が出てきます。また、オッサンは何だかんだ長年生きてきただけあって、蓄積されている経験知や世間知はすさまじいものがあります。私はあるオッサンに「物事のはじめと終わり、つまり栄枯盛衰は本を読んで勉強した方がいい。例えばテレビの発展と没落とかだね。生々流転のパターンを知っておくと何かと役に立つよ」という、なかなか深いことを言われたことがあります。オッサンが全員このように深く考えているわけではないでしょうが、オッサンによってはなかなかどうして深くて役立つことを教えてくれるのです。

 そんな憎たらしくも愛らしいオッサンについて、如何に彼らとの衝突を避けて上手く付き合うか、そしてできれば上手く自分の利益につなげるのか。今回の記事では、そういう話をしてみたいと思います。

 

地雷を避けるためには「結論・前提ファースト」をこころがけよ

~オッサンの決めつけはオチや前提を最初に言うことで回避できる~

 オッサンと話すときは、その決めつけの凄まじさに辟易とします。話のオチを聞いてくれなかったり、話の前提まで聞いてくれずに「それは違う!」だの「それじゃあダメだ!」と頭ごなしに否定してきます。仕事上の会話であれば結論ファーストで話す必要がありますが、会話を楽しむための日常会話においても「オチ」という結論を待ってくれません。基本的に短絡的なのです。

 ある時私がオッサンに、「最近自転車が壊れてて、そして直すの面倒くさいんですよね(話のフリ)。でも、そのおかげで毎日歩くようになって景色をよく見れてます(話しのオチ)」という話をしようとしたことがあります。しかし、フリの部分の「面倒くさい」というワードにかみつかれました。その結果、「人生なんて面倒くさいんや!いちいち面倒くさがるなら生きてるのをやめろ!」という凄まじい否定を食らいました。「歩きは歩きで景色が見れてよい」というオチまで待ってくれないのです。

 楽しむための会話というのは「下げて上げる」のような構成をとることが多いです。そうすることで話にメリハリをつけられます。しかし、オッサンにこれは通用しないことがあります。「下げる」の段階で「そんなマイナスなことを言うな!」とお叱りスイッチを起動してしまうのです。そのため、最初に「話のオチの部分。上げる部分」、つまり結論を言ってしまうことで、オッサンの短絡的なかみつきを回避する必要が出てきます。

 

 また、オッサンは話の前提を確認してくれません。この時は結論ファーストではなく前提ファーストがいいと思います。例えば、「1+1が3や4になることがあります(話の結論)。これは二次関数みたいに、単純な足し算とは異なる状況だからです(話の前提)」という説明をするとかみつかれる時があります。「1+1は2だバカ野郎!勉強しなおしてこい!」という感じです。

 こうなるといくら前提を説明しても聞いてくれません。1+1は2であることをひたすら説教されます。途中で前提を説明しようとすると、「1+1もわかってないお前の言葉に何の価値があるのか?!人の話をさえぎるな!」ということで、余計なお叱りスイッチを起動してしまいます。

 それを避けるためには、「ここでは二次関数で物事を考えます。単純な足し算とは異なる世界です(話の前提)。そのようなときには、1+1が3や4になることがあります(話の結論)」のような話の構成にすることが無難です。前提を最初にすり合わせることで、オッサンの決めつけを回避する余地が生まれます。

 オッサンの短絡的なかみつきは非常に厄介です。しかし、「短絡的」というオッサンの生態を理解してしまえば、ある程度対処可能です。短絡スイッチが発動する前に、オッサンをこちらの話の中身に引きずり込めばいいのです。そしてそのためには「結論ファースト」や「前提ファースト」などで、こちらの話の世界観をオッサンに事前に伝えておくことが有効になります。

 

オッサンは精神論が大好き。多少はそれに合わせてみよう

 ~合理的に精神論をハックしてみよう~

 オッサンは精神論が大好きです。何でもかんでも気合や意欲の問題にしてしまいます。しかも余計にタチが悪いことに、戦前の軍国主義的残りカスと、手塚治虫的な戦後ヒューマニズム悪魔合体して独特の世界観を作り上げていることもあります。そんなタイプのオッサンはうつ病を気合のせいにするくせに、薬で治療しようとすると「精神薬は人間性への冒涜だ!人格を変えてしまう薬なんてとんでもない!」といい始めたりします。

 まあ、そういう悪魔合体タイプのオッサンには精神薬を飲んでいることなんかは隠した方がいいのですが、それでも問題は残っています。オッサンはやたらと精神論が大好きなので、それに合わせて上げないと不機嫌になってしまうのです。

 例えば、オッサンと野球の試合を見ていてバッターが見逃し三振をしてしまったとします。そのとき、オッサンは「あのバッターは気合が足りないから見逃ししたんだ!気合が足りんぞ気合が!」とぶち上げます。しかし問題は、バッターに気合が足りなかったから三振してしまったのは本当なのか?ということです。

 審判の判定がおかしくてボール球をストライクと判定されたのかもしれません。もしくは、バッター側に「ピッチャーはフォークボールを投げてくるだろう」という読みがあったのに、あっさりストレートで三振を取られてしまったのかもしれません。この場合は気合の問題というより、審判や投手のクセを理解できていなかったという、戦略的な失敗が問題になるはずです。

 

 もちろん戦略的失敗を考慮できるロジカルなオッサンも多く存在します。しかし、やはり下の世代に比べて「気合の問題」にしてしまうオッサンが多いことも確かです。こうなるともう、オッサンの精神論に少しだけ付き合ってあげる必要があります。例えば先ほどの三振の例でいうと、「審判のクセを把握するという努力を怠ったという意味で、気合の問題だ」や、「配球への読みが外れても、そこで対応できない気合の問題だ」という意見を言えばいいわけです。ロジカルな部分と気合の部分を無理やりつなげて、オッサンに合わせてしまえ、というわけです。

 プロ野球をみるなどの「他人の話」を気合の問題にしてしまうのはまだ被害は少ないです。しかし、これが自分に降りかかってくるととても面倒くさいことになります。自分の失敗の本当の原因が戦略面・ロジカル面にあったとしても、それを言うことは「気合が足りなかった言い訳」としか聞いてくれないからです。

 そう言うときは、「今回の失敗には気合の問題が大きいです。確かに戦略的に甘い部分がありました。しかしそれは戦略を詰め切れなかったという意味で気合の問題です。それに、戦略的に失敗していても気合で挽回できる余地がある場面は確かにあったと思います。やっぱり最後は気合が足りませんでした。申し訳ございません」という風に弁解する必要があります。とにかく、「精神論」というパッケージをかぶせることで、オッサンに少しだけ歩み寄ってみるのです。

 

 ここで重要なのは、「精神論」というパッケージをつけることは不合理ではなく、むしろ合理的であるということです。オッサンという特殊な生態を持つ生物とうまく付き合うために、オッサンの生態に合わせた合理的な戦略が「精神論というパッケージをつける」ということなのです。むしろ、オッサンに対して合理論だけで立ち向かうのは逆に不合理です。

 「精神論が大好き」というオッサンの生態をハックするためには、こちらも精神論で武装するのが合理的なのであって、こちらが合理論に固執することは不合理です。それはもはや「合理性大好き。合理性を信仰している」というこちら側の「不合理」を露呈してしまっているからです。オッサンの精神論を合理的にハックすることで、こちらの要求や意見、謝罪などをうまく受け入れてもらえる可能性が上がると思います。

 

オッサンが「最近の若い者は云々」というのは人類普遍の小言。まあ適当に合わせよう 

~オッサンの若者ディスりは、男児中学生の下ネタ連呼と同じ~

 オッサンと話していて何よりも「イラっと来る」事は、事あるごとに「最近の若者は云々」という小言を挟んでくることです。そのくせ当のオッサン自身の若いころの話をよくよく聞いてみたり、犯罪傾向の統計データを見たりすると、「いやオッサンが若いころの方が俺らよりもレベル低いしモラルもねえよ」と思ったりしてしまいます。

 私がオッサンに言われたことの一つに、「最近の若者は勉強しない」というものがあります。そのオッサンは自分が大学時代に受けた経済学の授業を自慢げに語り、「今の若者には出来ねえだろう」という感じで迫ってきました。しかしまあ、その内容はなんとも「しょぼい」と感じさせるものでした。統計データを活用しているわけでもない、数学的に厳密な理論的考察を行ったわけでもなければ、回帰分析といった分析手法を使っているわけでもなし、何かしらの経済理論に基づいているわけでもなし。とにかく「それってあなたの感想ですよね?」とでも言いたくなるような内容でした(まあ面倒くさいので適当に持ち上げましたが)。

 また、「最近の若者はモラルがない。我々の時代には云々」というものがありますが、今のオッサンが若いころの方が少年犯罪の犯罪率は高く、むしろ平成に入ってから「人口当たりの少年犯罪」は減少傾向です。まあ、そういう統計データをだしてみたところで「屁理屈を言うな!そういうところがモラルがないって言ってるんだ!」と言われるのが目にみえるので、適当に話を合わせますが。

 

 とはいっても、このような「オッサンの上から目線」は、今に始まったことではありません。古代エジプトの時代にも、「最近の若者は云々」という文書があるそうなので、人類普遍の「やらかし」のようなものなのでしょう。思春期になれば性に目覚める、青年期になれば現実離れした正義を求める、壮年期になれば若者を見下す、というのは、人類の備わった一種の本能なのかもしれません。面倒くさいのは面倒くさいですが、「下ネタを言いたくて仕方ない中学生みたいに、オッサンという人種は若者ディスりをしたくてしょうがないんだな。もうそれは本能みたいなものだからどうでもいいや」とでも流しておきましょう。

 むしろ、そうやって「若者を見下す」というオッサンの生態をハックすれば、「こいつは若いのに見どころがある」と勝手に思ってくれて、何かと良くしてくれるようになるかもしれません。オッサンの生態をハックしてしまえば、何かと人生が楽になるかもしれません。

 

オッサンには「恩返し」ではなく「恩送り」の心で接してみよう

 ~オッサンは先に死んでしまうから恩は返せなくて当たり前~

 オッサンと上手く付き合う工夫が身についてくると、オッサンに恩を受けることが増えてくるでしょう。何かをおごってもらったりするだけでなく、仕事や日常で何かと世話を見てもらうなどです。こうなるとこっちも恐縮してしまい、オッサンに何かを返す必要性を感じてしまうことがあります。しかし、オッサンに恩を返す必要はありません。「恩送り」という、自分よりも下の世代に「オッサンから受けた恩を間接的に返していく・渡していく」ということを考えればよいのです。

 オッサンというものは先に死んでしまう生き物です。人生100年時代とは言いますが、順番通りにいけば先に死ぬことには変わりありません。時間や寿命という人間にとってはどうしようもない要素が、オッサンへの恩返しを阻んでしまうのです。それに、オッサンに金銭面や仕事面で恩を受けても、こちらには恩返しをできるリソースはありません。オッサンへの恩返しは絶望的な事なのです。

 

 そのため、将来自分がオッサンオバサンになったときに、自分よりも下の世代に何を返すべきか、を考える必要が出てきます。そして、大半のオッサンもそれを望んでいるはずです。オッサンが若い人に便宜を図るのは、「世間への投資」の面が強いです。要は将来その投資を大きく成長させて、世間に還元してほしいのです。それなのに、せっかくの投資がまだ膨らんでいないうちに返されてしまったのでは、オッサン側も興ざめしてしまいます。

 だからこそ、「今回はありがとうございました!今はあなたに返すことはできません。とても申し訳ないです。でも、これから自分なりに頑張って、自分がオッサンになったときに下の世代に同じことができるように、恩送りができるように頑張っていきます!」とでもいえばいいのです。

 そもそも、オッサンはそのような健気な姿勢というものが大好きなので、健気な姿勢をみせてオッサンを喜ばせてあげられた時点で恩返しの大半は終わったも同然なのです。こうすればオッサンは気をよくして、次回以降もますます便宜を図ってくれるかもしれません。しかしそのお返しとして、こちらがきちんと頑張って成長を目指すことが必要になるのですが。ただ、それも自分の成長につながって人生が前向きに上向くなら、オッサンとの関係をうまく自分の利益につなげられたということで、なかなか悪い話でもない気がします。

 

オッサンも実は繊細な存在である

 ~オッサンだって一人の人間である~

 さんざんオッサンの悪口を書いてきました。それに、世間にはオッサンに対する悪口であふれています。しかし、そんなオッサンも一人の人間なのです。純真無垢だった幼少期、多感だった思春期、夢に燃えた青年期を経て、オッサンになっているのです。そこにはドラマがありますし、人生に悲しみは付き物である以上繊細な傷を抱えて生きています。

 しかし、オッサンとは悲しい生き物です。そのような悲しみや繊細さを出すと「なんか頼りないな」ということで、周囲から距離を置かれてしまいます。まれに繊細さをうまく表現しつつ立場を保っているオッサンもいますが、それには技術が必要になります。すべてのオッサンがそのような技術を持っていない以上、多くのオッサンたちはガハハと強がってしまうのです。

 「謝れないオッサン」という生物がいます。絶対に自分の否を認めず、他人のせいにしてしまう悲しいオッサンです。しかし、オッサンがそういう風になってしまうのにも理由はあります。少しでも謝って弱みを見せた結果、その弱みに付け込まれて攻撃されてしまった、というような過去があるのです。その結果、オッサンは「謝る=社会的死」という公式を心に刻んでしまい、謝ることができなくなってしまっているのかもしれません。

 もちろんだからといって何なのだ、という話ではあります。しかし、そのようなオッサンの悲しみや繊細さに思いをはせてあげることは無駄ではないでしょう。そうすればいつの間にか心を開いてくれて便宜を図ってくれるかもしれません。それに、自分たちも将来はオッサンオバサンになる以上、オッサンオバサンに特有の悲しみや辛さというものは事前に知っておいて損はありません。

 そして、オッサンは長く生きてきただけあって、何かしらの一家言を持っている人もいます。確かにオッサンは短絡的な生き物です。しかしその短絡さ、つまり「決めつけ」は「蓄積された経験則」の結果でもあります。そのような一家言や経験則を知っておくことは、自分自身の人生にとっても貴重な財産になると思います。それにオッサンが先に退場してしまう以上、そのような先人の知恵を知る時間には限りがあります。

 憎たらしくも愛らしいオッサンたちを拒絶するだけでなく、上手く付き合って自分の利益・成長につなげることができればウィンウィンです。ということで、今回の記事はこれで終わりにします。

 

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