全てフィクションです。

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『無職転生』とかいう、男オタクの理想を詰め込んだ作品

はじめに

 2021年に話題になったアニメの一つに、『無職転生』というものがあります。童貞で引きこもりの30代無職が事故で死亡し、剣と魔法の異世界に転生して活躍する、というお話です。いわゆる異世界転生ものなのですが、そんじょそこらの異世界転生ものとは一線を画しています。アニメ版の作画は神がかっていますし、ご都合主義展開ではありつつも主人公は何度もピンチに陥ります。

 

 ただこのアニメ、女性にどうも受けが悪いようです。実は中国でも無職転生は放送されていたのですが、「女性を馬鹿にしている!」という声や、「そもそも無職に共感できない」という批判により大炎上しました。人の海である中国での炎上だったので、数千万人、下手をすれば一億人以上の人間がこの炎上で大乱闘を繰り広げたらしいです。中国のスケールの大きさには驚かされますが、本題はこの『無職転生』というアニメはあまりにも「特定層の趣味嗜好」に刺さり過ぎているために、「それ以外の層」からは嫌悪感を持たれてしまうようだ、という事です。

 

 私も実際に無職転生というアニメを見て、ネット上で公開されている原作も全て読んだのですが、確かにこの作品は「男オタクの理想が全部乗せでぶち込まれている。滅茶苦茶面白い」という感想を抱きました。そして同時に、「この作品に対して嫌悪感を抱く人も多いだろうな」という感想を抱きました。今回の記事は、そういった内容について書いていきます。

 

無職転生』は、少年漫画の要素(ハーレム含む)を全部乗せしている

 無職転生のストーリーを改めて説明すると、無職の童貞が異世界に転生して頑張るという、よくある異世界物です。しかし、その異世界で師匠や仲間、親友、家族との信頼を築き上げ、困難に立ち向かう人間のドラマがあるという点では、いわゆる単純な「俺TUEEEE」モノとは一線を画しています。主人公は何度も命の危機に陥りますし、何度も傷つきます。

 そういった展開の中で、「友情・努力・勝利」的な、少年漫画の王道とも言えるストーリーが紡がれていきます。しかもそれに加えて、主人公は複数人の美少女と深い関係性を築いていきます。要はハーレムものでもあるわけです。つまり、少年漫画にある「戦い」「努力」「ファンタジー」「性欲」の全ての要素を網羅しています。それでいてストーリーは破綻していない上に、適切な感情曲線(主人公の気分の浮き沈み)が描かれているので、面白くないわけがない、といった作品です。

 そのうえ世界観の設定も凝っていて、多種多様な種族が登場して群像劇の様相を繰り広げます。また、剣と魔法の設定も練られているので、「どういう工夫をしながら戦いが展開するのだろう」という、王道のバトル漫画的な楽しみ方もできます。そして主人公はその様なストーリーの中で着実に精神的に成長していきます。時には自分の未熟さを恥じ、時には老練に振る舞いと、作品を読んでいてまるで自分も成長しているかのような錯覚を味わえるのです。

 

 つまり、「少年漫画の面白い要素を全部乗せした上で、ストーリーに破綻がない」という、究めて完成された作品なのです。その様な少年漫画的要素のおかげで話の流れ自体もシンプルなため、混乱することもありません。とにかく面白いわけです。

 しかも、アニメ版は作画が神がかっています。中世ヨーロッパ風の異世界を丹念に描いているだけでなく、アジア的な都市や中東的な都市、うっそうとした原生林までも丁寧に描かれています。戦闘シーンもかなり気合が入っていて、登場人物たちが生き生きと躍動しています。

 

 とまあ、無職転生をべた褒めしたわけですが、この作品には大きな欠点が存在します。それは「とにかく陰キャ男の理想が詰め込まれている」という点です。主人公は強いし賢いしモテるし、そして根が陰キャなのでキモオタにとって感情移入がしやすいです。このように陰キャ男を喜ばせる内容が濃厚に詰め込まれているために、女性にとってはシンプルに「気持ち悪い」という感想を抱かれることも少なくないようです。

 つまり、一種の「ご都合主義」でもあるわけです。そのご都合主義に嫌悪感を持つ人が一定数いることが表面化したことが、中国での炎上騒動でしょう。しかし、やっぱり根強いファンがいるからこそ、作画に気合が入ったアニメ化もされるのだと思います。つまり、あまりにもご都合主義が完成しているために、「滅茶苦茶面白いか滅茶苦茶気持ち悪いか」という両極端な反応が出てくる作品の要です。単純に「完成度の低いご都合主義」であれば、ここまで嫌悪感を催すことなく無視されるでしょうから。

 しかし、だからといって「ご都合主義」は悪いものなのでしょうか。むしろ人間がフィクションを楽しむ理由は、今ここにある現実の世界とは異なる別世界を覗いてみたい、という欲求を満たしてほしいから、という物はあると思います。ここで視点を変えて、「物語ってのはそもそもご都合主義じゃないと面白くないのではないか」というテーマに移っていきたいと思います。

 

よく考えたら、「物語」ってご都合主義じゃないと面白くない

 物語というものは基本的にご都合主義的です。日本最古の長編小説である源氏物語だって、主人公である光源氏にとって都合がいい展開が(基本的には)続いていきます。もちろんピンチになることはあるのですが、それでも何だかんだピンチを乗り越えることも多いわけです。

 しかも、源氏物語は「光源氏にとって都合がいい」だけではありません。主要読者として想定されていたであろう女性たちにとっても都合がいい、「少女漫画的なご都合主義」にもあふれています。少女漫画のご都合主義といえば、お金持ちの御曹司などの社会的地位の高いイケメンが、少々モラハラ的に主人公の女の子を口説いてくる、というものです。

 光源氏はトップクラスの貴族という「社会的地位の高い人物」である上に、神々しいまでのイケメンで、スポーツや文化的才能にもあふれています。その様な「ハイスぺ」が、様々な女性を(モラハラを交えつつ)口説くわけです。当時は一夫多妻だったこともあり、「他に奥さんがいるハイスぺイケメンに、女の子が口説かれる」という展開も納得感があったのでしょう。とにかくご都合主義的です。

 

 そもそも、ご都合主義ではない物語など誰も読みたくないんだと思います。「こうあってほしい」という願望が反映されていなければ、わざわざ何時間もかけて文章や画面とにらめっこをするわけがありません。物語とはご都合主義で無ければ成り立たないわけです。

 中には、主人公がひたすらに理不尽でつらい目に合うという物語もあります。最近(2022年2月~3月時点)でいうと、『タコピーの原罪』という漫画作品でしょうか。しかしこれも、「多くの人が実は見てみたかった地獄の世界」を忠実に描いているという意味でご都合主義的です。どんでん返しの作品や、バッドエンドの作品であっても、「うすうすこういう展開を望んでいた」というようなストーリーでなければ、「ストーリーが破綻している」と言われるわけです。

 逆に、現実というものはご都合主義を簡単に超えてきます。大谷翔平藤井聡太の活躍は「リアリティがない」ものです。もしも漫画や小説で彼らのようなキャラクターが出きたら読者は興ざめしてしまうでしょう。もしも彼らのようなぶっ飛んだ人物を登場させたいならば、「作品中にある他の要素との整合性」を作る必要があります。その「整合性」こそが、「ご都合」だと思うのです。

 

 例えば、リアルな野球漫画で大谷翔平のような選手を登場させるのはリアリティがありません。しかし、『ドカベン』のような荒唐無稽さを残している漫画であればまだ整合性があります。もっと言うと、『ボボボーボ・ボーボボ』のように、破綻の一歩手前まで言ってしまっているギャグマンガであれば、大谷翔平のような「リアリティがない人物」も登場させることができます。

 フィクションというものがあくまで「人工物」である以上、そこには「人工性」がなければいけません。あまりにも現実的だと淡々としすぎていて面白味がないか、逆に展開がぐちゃぐちゃすぎて読者がついていけないかのどちらかでしょう。人工物としてのフィクションを支えるのが、「ご都合主義」の役目なのだと思います。

 そして、あくまでそのご都合主義が露骨になり過ぎないように、主人公をピンチに陥れたり、失恋や死別といった悲しみを背負わせるのだと思います。フィクションがあくまで「観客」を必要とする以上、「観客の期待を程よく裏切りつつ、基本的には観客の期待を満たす」ことが求められるのだと思います。そしてそれは結局、一種のご都合主義なのだと思います。

 

誰かの性癖に刺さるということは、誰かの嫌悪感を刺激するということ

 話を無職転生に戻しましょう。無職転生とは、「男の願望」というものを非常に都合がいい形で取り入れた作品です。ただ、そのご都合が上手く組み合わさっているため、単純な「俺TUEEEEE」とは一線を画しています。しかしその一方でその組み合わさり方があまりにも整っているために、「普通に気持ち悪い」という感想も出てくるのだと思います。

 しかし、「誰かの好み(性癖)に突き刺さる」という事は、逆に「誰かの嫌悪感を刺激する」という事でもあると思います。私は幼少期に『マイメロディ』や『プリキュア』などの「女子の理想を突き刺した作品」に、どうしようもない嫌悪感を覚えることがありました。なんとも言えないのですが、とにかく気持ち悪かったのです。

 一方で、女子のほうは『戦隊ヒーローもの』や『ポケモン』といった、(基本的に)男子向けの作品を嫌っていたようです。それは、「男子の理想を突き刺している」からこそ、女子にとっては嫌悪感の対象だったのかもしれません。

 

 フィクションが持つ「誰かの好みに深く突き刺さる」という要素を機能的に考えると、「心理状態を極度に操作する」という道具の面が出てきます。つまり、フィクションとは心理状態を操作する道具として利用できるわけです。これを悪用すればプロパガンダになるわけですが、それについてはここでは置いておきます。

 そして、道具というのは使う場面によっては有効で安全である一方、別の場面では不適切で危険ですらあります。まな板の上で肉を切る上では包丁は役立つし安全ですが、チェーンソーを使おうとすると危険なだけです。逆に、木を切るにはチェーンソーが有効ですが、包丁では文字通り刃が絶たないうえに「無理やり硬いものを切ろうとして刃が滑る」ために危険ですらあります。

 

 物語も、これと似たようなものだと思うのです。「誰かの心を動かすには有効な道具」である物語も、「別の誰かの心を動かすには効率が悪いだけでなく、その人に嫌悪感をもたらす」ものだとも思います。むしろ、「機能としての物語」が完成され、その機能の有効な範囲が明確である場合は、その範囲から外れている読者にとっては「何が面白いのかまったくわからない。むしろ気持ちが悪い」と感じられるのだと思います。

 つまり、『無職転生』という作品は「キモオタ」の心に対しては有効な道具であったものの、「女性の多く」にはあまり有効でない道具だった、という事なのだと思います。それは逆に言うと、『無職転生』の道具としての完成度が高かったからこそ、有効な範囲を外れてしまうと機能不全に陥ってしまうという事なのでしょう。

 

 ということで、今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、できればフォローをお願いします。

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