全てフィクションです。

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努力とは自己否定であり、それに耐える精神的安定を必要とする

 

はじめに

 努力をしなさい、とはよく言われます。確かに努力は大切でしょう。しかし、努力する、とは簡単に言える一方、実際に努力を行うことは難しいものです。「じゃあどうすれば努力できるのか?」というハウツーや、「努力に耐えるためには何が必要なのか?」ということについては、なかなか教わる機会がありません。

 よく言われることが「努力を努力と思わず、その物事を楽しむといい」という事です。確かにこれは一理あります。私の経験でも、努力を努力と思わずに楽しむことができたときの方が、課題に対して前向きに取り組めて成果を出すことができました。

 しかし、一方で世の中には「努力を苦しいと思いつつも、努力を歯磨きのように続けられる人」が存在することも確かです。もうこれは精神論でもなんでもなく、「努力するための才能」が根本から違うとしか思えません。彼らのように努力しようとしても無理があります。

 

 例えば、小説家の黒木亮さんは大学生時代に英語を毎日30分勉強していたそうです。これだけなら簡単そうなのですが、実は話は違います。黒木亮さんは大学時代に箱根駅伝に出るほどの猛者だったのですが、箱根駅伝に出たその日も30分の英語学習を欠かさなかったそうです。駅伝の練習や試合で疲れていたであろう日でも30分の勉強時間を忠実にやり抜けるというのは、精神論だけでは説明できない「何か」の存在を感じてしまいます。

 その「何か」には、体力や精神力、そもそも努力の才能といった要素があるのは間違いないでしょう。そして「向上心の強さ」というものがあるのもおそらく否定できません。しかし、この「向上心の強さ」というものが案外曲者だと思います。

 「向上心が強い」という事は逆に言うと「現在の自分を否定する」という事になります。この「現在の自分を否定する」という事に耐えられるだけの精神的安定が、努力には不可欠の要素だと思うのです。今回は、そんな話について書いていきたいと思います。

 

「努力の才能」というものは存在する

 「才能か努力か」というのは人間を悩ませるテーマです。しかし、そもそも「努力にも、努力するという才能が必要になるのでは?」という事は、怠惰な読者には感じられたことがあると思います。

 例えば、毎日3、4時間の睡眠で全快できるという、ショートスリーパーの体質などです。一般的な人間は全快するためには8時間の睡眠が必要になりますが、3,4時間睡眠で稼働できる人は一般的な人よりも4,5時間の余裕を確保できます。また、6時間で全快できるという人も、一般人よりも2時間の余裕が確保できます。

 そのような先天的なショートスリープの才能があれば、結果的に「努力の才能」を持っていると言えるでしょう。なぜなら努力には時間が必要である以上、睡眠時間を必要とせずに努力時間を確保できるというのは根本的な部分で優位性を持っていて、結果的に「努力の才能がある」と言えます。

 

 「全快に8時間以上かかる人が、睡眠を削ってでも努力する」というのは選択肢の一つかもしれません。しかし、それは長続きはしません。結果的に体を壊したり、能率が下がったり、昼間の本業が寝不足でおろそかになったりと、とにかく持続性がありません。数年程度はその様な努力をしてもいいとは思います。しかし、十数年、何十年と「睡眠を削る」という努力をしていると、体を壊すか、最悪の場合過労死してしまいます。

 努力には持続可能性が大切です。なぜなら「より良い将来」を実現するために努力をする以上、「将来を悪くしてしまうような努力」は、根本的に間違っているためです。「将来のキャリアを考えて、睡眠を削って努力をしていたら、病気になってしまいキャリアを失いました」では、もはやそれは努力というより愚行になってしまいます。

 

 また、「日々の体調が安定している」というのも努力の要件になります。三日に一回は風邪で体調を崩します、というような状態ではそもそも努力のしようがありません。実は私は発達障害を抱えていて、そのおかげで睡眠障害に悩まされていました。上手く寝れずに「脳みそが痛い(頭が痛いとは違う、脳みその回路が焼け切ってしまったような感覚)」状態が五日に三日くらいは来ていました。現在は服薬で改善されているのですが、「体調が安定しているって、なんて快適に努力ができるのだろう!」と自分でも驚いています。

 体調が安定しなければ、日々淡々と努力を積み上げるという事は難しくなります。「昨日はできたことが今日はできない」という状態が続くと、そもそも積み上げることができなくなるからです。

 そして何よりも、努力には「向上心の強さ」というものが必要になります。現状に満足していないからこそ、現在の自分を否定して努力を積み上げることができるからです。しかし、これが曲者だと思います。現在の自分を否定するというのは、精神的に非常に辛いことでもあるからです。

 

 そんな「自己否定」を自分に向けても、「自分という存在」が脅かされないという安心感がどこかになければ、努力を続けることはできません。自責思考は向上心に必要ですが、自責に耐えきれないとうつ病などになってしまいます。

 

「絶え間ない自己否定」という「向上心」を持つためには、精神的安定を必要とする

 「努力には自己否定が必要になる」というのは一見わかりにくいかもしれません。しかし、努力というものは「現状維持に飽き足らず、今よりも良い将来を手に入れるための投資」です。つまり、現在を否定して犠牲にし、将来のために資源を投資する行為です。「こんなにダメな自分を変えたい」「自分に足りないものを補いたい」というタイプの努力は、まさに現在の自分に対して否定的な思いがあるからこそできるわけです。

 まれに「現在の自分にも満足している。しかし、もっと上の世界を見てみたいから努力する」という動機で努力できる人もいるかもしれません。その様な人はある意味で特殊体質だと思います。現状で満足できているのに、なぜわざわざ我慢してまで努力をしないといけないのでしょうか。その様な気持ちになって、努力を放棄して怠惰をむさぼる方が普通ですし、ある意味人間臭さを感じさせて親しみが持てます。

 普通の人間が努力できるときは、現在の自分に満足していない、つまり現在の自分を否定したいときだと思います。そして問題になるのが、この「現在の自分への否定」に耐えられる精神的安定があるのかどうか、という事です。

 

 「現状のダメな自分」をひたすら見つめることは精神力を必要とします。人間は結局自分がかわいい生き物ですから、醜い自分の姿を見続ける事は簡単に耐えられるものではありません。努力をせずにひたすら憂さ晴らしの暴言を吐いているような人というのは、現状の自分の醜さを直視出来ていないためにそうなっているのだと思います。自分の醜さから目を背けるために、社会の醜さばかりを見つめて文句を言っているわけです。

 人生が順忠満帆にいき、大人になっても努力を積み重ねていたような人が急におかしくなる時があります。致命的な挫折をしてしまったり、絶え間ない自己否定による努力に耐えきれなくなったからかもしれません。そして、「自分の醜さ」を直視できる精神的安定が失われてしまうと、立て直すことは容易ではありません。酒やバクチ、性的快楽、違法な快楽に溺れている自分を直視できずに、ひたすら精神的におかしくなってしまうのでしょう。

 「現状の欠点だらけの自分、つまり醜い自分」を淡々と見つめられるからこそ、自分に足りない部分をあぶり出すことができます。また、自分を客観的に観察することで、「この分野はどうにも自分には向いていなさそうだから、他の分野で努力をしよう」という戦略的な判断が可能になります。自分を淡々と客観的に見るためには、意外と精神的安定が必要になるのです。

 

 ではなぜ、精神的安定があれば現在の自分を否定するような芸当が可能になるのでしょうか。それは、「現在の自分が否定されても、自分の人格や人生そのものが否定されるわけではない」という自信、つまり精神的安定に支えられているからです。自分に確固たる自信があるからこそ、「現在の自分」という小さなものが否定されても、「将来の自分」という大きなものに向かって努力を重ねることができます。

 中にはコンプレックスと精神的不安定を燃料にして努力をする人もいます。周囲にバカにされるのが嫌で、自分が嫌いすぎて、とにかく見返したかったから努力をした、といった具合です。しかし、このような努力だけを続けていることは将来性がないと思います。根本的な部分で自分に自信がないせいで、周囲との人間関係でトラブルを起こしてしまうからです。

 

 努力をしてスキルやセンスを身に着けたとしたら、その先にあるのは人間関係です。スキルやセンスの切り売りというものは、結局は「利用される立場・人の下に立つということ」でしかありません。スキルやセンスの切り売りを越えて、「人の上に立つ」ということができるようになるためには、人間関係をうまくこなす必要があります。

 そしてその際、自分への自信の無さから努力していたタイプの人は、人間関係でトラブルを起こしてしまいます。そうなると、元々精神的に不安定だったうえにトラブルによって更に精神的に不安定になってしまいます。「現状の醜い自分」に耐えきれなくなるので、破滅はすぐ目の前にあります。

 コンプレックスや自信のなさを燃料に努力をしているような人も、いつか「自分に自信を持つ」ということが必要になると思います。そうやって精神的安定を得て、初めて健全な努力ができるようになるわけです。

 

では、精神的安定を手に入れるためには何をすればよいのか

 では、どうすれば精神的安定を手に入れて「健全な努力」をすることができるようになるのでしょうか。私なりの3つの提案をして、この記事は終わりにしたいと思います。一つ目は、「自分の人格」と「自分の能力や思考は別物だ」と考える、ということです。

 努力における自己否定をあくまで「現在の自分の能力や思考」に向けて、「自分の人格そのもの」は否定しない、という考え方です。こうすれば、現在の醜い自分を直視しても、「その醜い自分とは別に、自分は高潔な魂を持っている」というような二重思考ができるようになります。「現在の自分」と「自分の人格そのもの」をダブルスタンダードで捉えるというわけです。

 こうすれば、現在の自分を否定するような努力であっても、自分そのものを否定するわけではないので精神的安定を得ることができます。ただ、「じゃあ自分そのものって何?」という哲学的な問いに陥ってしまうのは避けた方がいいでしょう。その様な「自分そのものを問い直す」という行為はあまり幸福にはつながりません。どこかで思考停止をして、「自分は自分だから自分だ」という循環論法で自己暗示をすることが必要になります。

 

 二つ目の提案は、「単純に身体的健康を保つ」ということです。精神と身体は互いに影響を及ぼしているので、「身体」を保つことで「精神」を支えるという事になります。運動をし、食事のバランスに気を付け、睡眠を適切に取ることで体調が安定し、精神的にも安定することができます。

 実際に、炭水化物ばかりの食事をとっていると、私はどうにも気分が沈み込んでしまいます。野菜や肉もしっかりと食べて身体的健康を保つことが、どうやら精神的安定に繋がるようです。また、できれば運動や睡眠も適切に行うことができたときは、やる気があふれてきます。「今の自分はダメだけど(現在の自分への否定)、それは別に自分そのものが悪いわけではない(精神の安定)。むしろ欠点を直して将来の幸福を得よう!(将来への意欲)」という風に、前向きに考えることができるようになるのです。

 

 三つ目の提案は、「人間関係を大切にする」ということです。家族、友人、恋人など誰でもいいので「貴方が貴方でいてくれるだけでいい。貴方は貴方だ」という、無償の全肯定をしてくれる人を大切にする、というわけです。そして、「貴方のことは大切に考えている。だからこそ、その欠点は直した方がいいと思う」というような、建設的な全肯定をくれる人と仲良くするわけです。

 適切な自己愛というものは自分の内側からだけでは支えることはできません。周囲の人間に承認され、愛されるからこそ成り立つものです。そしてその様な愛を与えてくれる人を大切にして、その様な愛を裏切りたくないと思うからこそ、「現在の自分の欠点を直すために努力をする」ということが可能になるのだと思います。

 

 いずれにせよ、「現在の自分を適切に憎み、将来の自分や本来の自分を適切に愛する」ということは簡単にできるわけではありません。私自身も、自分ができているかと問われれば、「出来ています!」と即答できるわけではありません。しかし、競争社会であり、努力が求められている現状では、努力を積み重ねる必要があるわけです。逆説的ではありますが、厳しい競争に勝つためには、暖かい居場所を自分の中に確保する必要があるわけです。人間って難儀な生き物ですね。

 

 それでは、今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、出来ればフォローをお願いします。

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