全てフィクションです。

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勤勉を捨てた怠惰を取り入れることは、日本を救うのではないかと思った話

 「インプットとアウトプットのバランスを取ることが大事だ」とは、多くの本に書かれています。このような、正反対の2つを交互に取り入れることは何かにつけて重要です。そして「緊張とリラックスのバランスを取ること」も重要だと言われています。しかし、この記事では少し言葉を変えて「勤勉と怠惰」という軸から考えてみたいと思います。なぜこのようにわざわざ言葉を変えるのかについては、この方が「視野を広げる」という観点では有効だと感じているためです。

 

 「緊張とリラックス」では、まだリラックスできていないと言うか、「何かの目的のためにリラックスをしている」と私は感じています。「先週は忙しかったから、今週は旅行で気晴らしをしたい(旅行でリラックスするのも仕事のため)」、「今日は疲れる日だったから、今夜はお酒を飲む(お酒でリラックスするのも仕事のため)」といった感じです。あくまで「仕事や勉強」という目的があり、その目的のための構成要素として「リラックス」があるといった感じです。

 

 確かに一時的に緊張をほぐしてリラックスする事は、仕事や勉強を進める上では重要です。しかし、仕事や勉強のために何の役にも立たない「怠惰」も重要なのではないか、と私は考えています。仕事のための緊張もリラックスも、結局は仕事の構成要素です。しかし、その構成要素から完全に外れた「怠惰」が無ければ、知らず知らずのうちに視野が狭くなってしまうのではないでしょうか。

 

 目の前の仕事を有利に進めるためには「緊張とリラックス」だけでいいかもしれません。全体を疑い、新しい視点から新しい発想をするためには、怠惰という行為が有効になります。怠惰でなければアクセスできない領域があるためです。今回は、そんな内容について書いてみたいと思います。

 

 

「優秀な人ってなんとなく視野が狭いことがあるな」という経験

 私はプライベートで大企業役員経験者や起業家の方と話したことがあります。また、ツイッターなどを通じて、優秀な学者の日常的なつぶやきを長期間フォローしたこともあります。それを通じて彼らの見識の深さや、視野の広さという物には何度も驚かされました。しかし同時に、「彼らは特定の領域になると、とたんに視野が狭くなる。何度言っても何を言っても、何故か〇〇だけは理解できない」という感想を抱いたこともあります。

 

 それも「〇〇には共感はできないが理解はできる」という穏当なものではなく、「私は断固反対だ。〇〇の様な事はありえない」というような、強い拒絶を伴うものです。もしくは「〇〇なんて下らないことをしている奴、擁護している奴は人間のクズだ」というような、強い見下しを伴うこともあります。

 

 そのような「地雷」を踏んでしまうと、さあ大変です。何故かこっちの評価まで下がってしまうこともあり、今後の人間関係で大きな影響が及びます。こちらも開き直って「〇〇の良さを理解できない老外はダメだ!」と反発してみたところで、社会的に力を持っているのはあちら側なので分が悪いです。そのため「おっしゃる通りでした。私の勉強不足でした」みたいな事を言ってお茶を濁すことが有効です。それか「〇〇は私にとって「政治・宗教・野球」並みに大事にしていることです。申し訳ありませんが、ここは停戦協定を結んでいただければ幸いです」のように、相手の一縷のやさしさに賭ける手もあります。

 

 どちらにせよ、面倒くさいことには変わりありません。そしてこのような面倒くささに接しているうちに、なぜ彼らはこうも面倒臭くて視野が狭いのだろう、と考えるようになりました。そしてそのうちに、私なりの解釈というか、一つの結論が生まれました。それは、彼ら優秀な人は「特定の前提の上に自身の成果を積み上げ、実績を残している。そのため、その前提から外れることや相反する事柄には、強い拒絶や見下しを示してしまうのではないか」といったようなことです。

 

 優秀な実績を残すためには気合だけでなく「効率的な努力」が必要になります。努力というのが自分の時間や精神力、体力を分配する行為でもある以上、一種の戦略的行為だからです。努力の効率性を向上させるために、「特定の前提(土台・パースペクティブパラダイム)に絞ったうえで努力を行う」という事を、彼らは実践しているのではないでしょうか。そしてその「前提(土台・パースペクティブパラダイム)」から外れた事柄に対しては、なまじっかその「前提」を破壊してしまうと感じるために、強い拒否反応を示してしまうのかもしれません。

 

 他人の前提、つまり地雷を踏んでしまっただけならまだ楽です。その時は謝るかナアナアにするかで、あとから「あの人ってなんで〇〇についてだけ急に視野が狭くなるんだろうね」と陰口をたたくだけでいいのですから。しかし、自分がその様な状態になってしまうと色々とマズい気がします。「変化が激しい時代」と言われるように、物事の前提が次々と移り変わる時代において、特定の「前提」に固執してしまうことは非常に危険だからです。

 

 そして、「優秀がゆえに視野が狭くなっている人」を見て、彼らに何が足りないのかを考えた結果、「怠惰」が足りていないのではないか、と思うようになりました。「リラックス」よりも極端な弛緩である「怠惰」です。ではなぜ怠惰が視野を広げるのかというと、怠惰であればこそ「流される」ことが可能になるからです。怠惰に流されるからこそ、勤勉なだけではアクセスできない世界に触れることができ、結果的に視野も広がるのではないでしょうか。

 

怠惰は前提を柔軟にし、視野を広げる

 勤勉に何かに取り組み、リラックスしているときも常に頭の片隅に仕事や勉強がある、という状態では、怠惰は敵になります。その緊張を完全に解いてしまって、怠惰に耽ってしまうと、再度緊張して勤勉モードになるために時間がかかるためです。そのため、怠惰を避け、自分を律することが必要になります。しかし、怠惰には利点もあります。それは「今の前提や生活、仕事に囚われずに時間を潰すことができる」というものです。

 

 人間の生活は基本的に勤勉さに支えられています。また、勤勉さは特定の前提の上に成り立っています。そのため、知らず知らずのうちに生活が前提を支配してしまい、視野が狭くなってしまうという事は往々にしてあります。例えば、工場労働者が勤勉に工場で働いて生計を立てているために「モノづくり」に強い執着を示して、海外への工場移転に対して「日本のモノづくりが空洞化してしまう!」と反対するなどです。

 

 また、大学で優秀な成果を出している研究者が、勤勉に研究に取り組んでいるがゆえに「研究の重要性」を過度に見積もり、大学予算の削減に強く反対したりすることなどです。大学予算は確かに確保されるべきですが、一方で削減された予算によって「他の分野で何が生み出されるのか」を考慮したうえでなければ、大学予算削減に対して有効な反対論は打てません。しかし、その視点を持つことなく、ただ「大学予算を削るな!」と叫ぶだけだったりするのです。

 

 真面目に生活を考え、勤勉にやっているからこそ、どうしても「見えない視点」が生まれてしまいます。怠惰というものは、この「見えない視点」を見るために重要なのではないでしょうか。生活から遊離した怠惰であるからこそ、生活という前提を取り外して、今まで見えていなかったものが見えてくるのだと思います。そして前提を取り外して世の中を見てみるからこそ、今までになかった視点や、自分が固執している何らかの前提が浮彫りになるのではないでしょうか。

 

 モラトリアムという言葉があります。学業と社会人生活の中間点で、何もしない時間を確保するからこそ、そのあとの人生が豊かになる、というようなことがモラトリアムの効用として語られています。このようなモラトリアムを、怠惰という形で日常に組み込む必要があると思うのです。それは「リラックス」のような生易しいものではありません。リラックスはあくまで用意された環境で精神の緊張をほぐし、英気を養うものです。しかし、「怠惰」は、もはや環境のすべてを打ち捨ててしまうような極端な弛緩です。このような弛緩があるからこそ、自身が縛られている前提を改めて中立的に眺めることができるのではないでしょうか。そしてその結果、視野を広げることができます。

 

 そもそも、歴史上何らかの文化的成果を出した人々は「怠惰」の上に何かを成し遂げた事例も多いです。怠惰であるからこそ、当時の社会の前提に縛られず、新しい視点を持つことができたのでしょう。製品からコンテンツの時代になっていると言われる現在、「怠惰」を意図的に取り入れることは重要だと思います。コンテンツは文化的色合いが強い物であるために、意図的に怠惰を取り入れることで、今までになかった発想からコンテンツを考えられるようになります。

 

 しかし、怠惰という物は生活の全てを打ち捨てるような行為です。生活を忘れるのにも時間がかかりますし、そのあとに「社会復帰」をするためにも時間がかかります。つまり、まとまった時間の休みをとることが要求されるのです。日本社会や日本企業についてグチグチと文句は言いたくはないのですが、このような「怠惰」を許すような休暇が取りづらいことは、日本社会の欠点かもしれません。極論を言うと、このような欠点のために、近年のコンテンツ重視の経済で日本は伸び悩んでいるのではないでしょうか。

 

怠惰は日本を救う?~緊張とリラックスの先にある、勤勉と怠惰へ

 勤勉と怠惰の話から、まさかの日本社会批判にまで及んでしまいました。しかし、このような視点は、今後の経済を考える上では重要だと思います。日本人はどうも、特定の前提の上に何かを積み上げることは得意なようです。高度経済成長期からバブルまでは、ひたすら製品改良を繰り返して経済大国にまで昇り詰めました。しかし、現在はIT化や新興国の登場といった「前提の転換」によってピンチを迎えています。また、戦前の日本は軍事大国でもありました。明治時代以降の19世紀型の戦争を究め、アメリカに真珠湾攻撃という大打撃を与えながらも、20世紀型の戦争という「前提の転換」についていけずに敗北を喫しました。

 

 日本人がこうも「前提の転換」に弱いのは、勤勉すぎるからなのではないでしょうか。勤勉なのはいいことでもあるのですが、知らず知らずのうちに特定の前提に縛られるという副作用ももたらします。自分を縛っている前提を取り払い、新しい視野で考えられるようになるためには、怠惰が必要なのではないでしょうか。そしてそのためには、「勤勉」のみを美徳にしている日本人が、「怠惰」を許容するようになる必要があると思います。「緊張とリラックスの有効性」は良く語られますが、リラックスではまだ生ぬるいでしょう。リラックスしているときであっても、心の底では仕事や勉強について考えていて、「生活」を忘れることができません。

 

 もはや生活の全てを打ち捨てて夢想にふけるような、「怠惰」を実現するための時間的余裕を確保する。3日4日の連休ではなく数週間、数か月単位の休みをとって生活を打ち捨てて怠惰に耽る。このような事を許容できるような社会になれば、日本はもっと良くなるのではないか、と思います。

 

 優秀で勤勉なのはいいことです。しかし、現在は次々と前提が変わりつつあります。その様な中で、前提を疑い、新たな視点で新たなものを生み出すためには、怠惰が必要なのではないでしょうか。




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