全てフィクションです。

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『よふかしのうた』と言う最高に瑞々しいアニメがあるから、見てもらいたいという話

はじめに

『よふかしのうた』というアニメが今年(2022年)の7月から放送されました。元々はクリーピーナッツの『よふかしのうた』という同名の楽曲からインスパイアされた漫画『よふかしのうた』という漫画がアニメ化されたと言うややこしい()経緯をたどっているこのアニメですが、情景描写がひたすら美しいと言うことで、たまらずブログ記事にしてしまったという次第です。

 このアニメでとにかく美しいのは、「理想化された夜」と、「思春期に揺れ動く少年少女の心」でしょうか。素人がアニメというプロがつくった芸術作品の品評をするのはどうかと自分でも思いますが、まあインターネットの藻屑と消える運命に(今のところ)定められた記事で適当に書き散らすことくらいは許されるでしょう。

 詳しくは後述しますが、「理想化された夜」というのは、都会的な華やかさ、深夜の静けさ、満点の星空という本来は相反する要素をてんこ盛りにして、これでもかという「現実には存在しない、理想としての美しい夜」をこれでもかと描いているということです。

 そして、「思春期に揺れ動く少年少女の心」というのは、友情と性欲、そして恋愛感情のはざまで揺れ動く心情、とでも言えばいいのでしょうか。とにかく、肉体的・精神的な変化(あえて「成長」とは言いません)に戸惑う思春期の心理を丁寧に描いていることに私は感動しました。

 今回は、そんな『よふかしのうた』というアニメについて、その愛を(稚拙ながら)ぶちまけてみたいと思います。

 

瑞々しいまでの「夜と感情」の描写

『よふかしのうた』でとにかく心を揺さぶられたのは、「夜と感情』の描写がとにかく瑞々(みずみず)しいことです。現実世界では都会の夜に星はありません。地上からの猥雑な光で天の川や星座はかき消されてしまいます。

 しかし、『よふかしのうた』では、都会の華やかな光と、天上の優雅な天の川が同時に描かれています。スタッフもその二つが両立しないことは百も承知でしょう。しかし、この二つが両立して描かれた空というものはこんなにも美しいのだろうか、という感動を覚えました。アニメという「理想をいくらでも描ける世界」で、人工の光と自然の光を見事に融合させているわけです。色味も細心の注意が払われているらしく、どこにも存在していないけど、どこかに存在していて欲しい、「理想的な夜の光景」が描かれています。

 そしてその「理想的な夜」に登場するのは、(第5話の時点では)純粋な少年少女、艶かしいが子供っぽい吸血鬼、少年の幼馴染の少女、理性を失った故に純情を取り戻したであろう酔っ払いくらいで、これまた「どこにも存在しない夜」です。

 夜というのは、魅力的ではありますが、それと同時に「大人の世界」、つまり薄汚い、淫靡なイメージがつきまとうものです。この作品ではそのような汚れはバッサリと切り捨てられています。まるで幼児期の、汚れを知らない時期に私たちが憧れた、純粋な夜というものを見事に描き切っていると私は感じました。

 そしてその「夜」を舞台にして描かれる登場人物たちの心情描写も瑞々しいわけです。主人公は恋愛感情が薄い一方で、人並みに悩みや苦しみを抱えている不登校の少年です。その少年が、「美少女吸血鬼」という特殊な存在を媒介として、様々な感情を育んでいきます。しかし、特殊な媒介があると言っても、吸血鬼の美少女も人間と対して変わるところがなく、むしろ親しみやすい存在です。まあ、吸血鬼らしい世間擦れした雰囲気を醸し出すことはありますが。

 そのような人間の苦しみ、悩みというドロドロとした感情を、「理想化された夜」という舞台を用いてまるで一編の詩のように歌い上げた作品、それが「よふかしのうた」だと思います。

 

思春期の「不純」を取り除いた、「理想的で美しい思春期の描写」

 そう言ったふうに、「理想化された夜」を舞台に、「瑞々しい感情」がほとばしる『よふかしのうた』ですが、これまた理想化されたもう一つの要素があります。それは「思春期」です。

 思春期というのは、理想化されこそすれ、意外とその内情はドロドロとしたものでしょう。男子は性欲を覚えることで女子を邪な目で眺める。女子は女社会のドロドロに巻き込まれて「彼氏のスペック」でマウントを取ることを覚え始める。いずれにせよ、「男女ともに、相手の異性を肉欲や社会的立ち位置を色眼鏡に見始めてしまう」という時期でもあります。

 婚活で重要なのは、男は年収、女は若さという身も蓋もない話がありますが、その芽生えが始まるのが思春期というわけです。

 ただ、『よふかしのうた』では、そのような不純な思春期は描かれません。これは主人公の少年が「異性を好きになれない」という特性を持っていることが大きいためでしょうが、それにしても理想化された思春期だなあと感じます。

 通常、そのような「理想化された思春期」というのは、どこか白々しさを感じさせるものです。性欲や社会的地位への関心がない少年少女が繰り広げるストーリーというのは、美しいとは言えども、標本のような味気なさを感じます。

 しかし、「よふかしのうた」はそのような作品とは一線を画しています。なぜなら、主人公の「恋愛」「性」に対する描写が丁寧に描かれているからです。主人公は「恋愛感情」こそ薄いものの、なんだかんだで立派に「性欲」を持っています。

 「恋愛」と「性」を丁寧に切り離した上で、両者を混淆させて描いている『よふかしのうた』は、逆説的に思春期の「不浄」を切り離すことに成功しています。そこに現れるのは、「送りたかったけれども、送れなかった思春期」です。そのノスタルジアや、現実のゴミ溜めのような世界から、理想の、美しい世界を夢見る私たちの心を抉るものがあります。

 これほど、「思春期」というものを、理想化して美しく描いている作品はないでしょう。

 

まあ設定に無理を感じないこともない

 ということで『よふかしのうた』をべた褒めしましたが、この作品に無理がないわけではありません。主人公は14歳という年にして深夜徘徊を繰り返しますが、これは現実でやると警察に補導されてしまいます。また、主人公と関わる美少女吸血鬼は性的なあれこれを醸し出しますが、これも未成年淫行ということで条例に引っかかってしまうでしょう。

 ただまあ、このような「些細な現実との違い」に目につむるというのは、フィクションを楽しむ上でのお約束のようなものです。必殺仕事人や水戸黄門暴れん坊将軍のような、「現実にはありえない話を展開してくれる」からこそ、私たちはフィクションを楽しめるという部分があることは否定できません。

 このような設定の無理に目をつぶって、フィクションで描かれる「夜の美しさ」、「思春期の感情の瑞々しさ」に浸れるのであれば、『よふかしのうた』は素晴らしい作品になるでしょう。

 そして、この作品は「思春期真っ盛り」の人も、「思春期をとうに終えた大人」も楽しめると思います。現実に苦しんでいる(いた)思春期との差分を楽しめるわけです。その「現実と理想の差分」を楽しむと言うことこそ、フィクションを楽しむ醍醐味の一つではないでしょうか。

 

 と言うことで、今回の記事はこれで終わりにします。ツイッターもやっているので、この記事が面白いと感じたら、是非フォローの方をお願いします。