全てフィクションです。

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「エモい」に耽溺するのはガキと芸術家の特権である

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はじめに

 「エモい」という言葉が広まってだいぶ時間が経ちました。「何とも言い表せない形で感情が動かされた」という意味を持つこの言葉ですが、平安時代の「をかし」との共通点も指摘されていたりします。「最近の若者は何でもかんでもエモいっていうから語彙力が落ちてる」という批判もあるかもしれませんが、一方で「エモい」という言葉でしか表現できない場面があることも確かです。「切ない」「うれしい」「美しい」「辛い」のような様々な感情が一気に押し寄せたときに、「エモい」という言葉で表現するしかないのでしょう。

 そんな若者文化の中核の「エモい」ですが、おそらく同様の「感情の動き」は昔から人間は持っていたのでしょう。だからこそ、平安時代清少納言が「いとをかし」といって自然や人間のエモさを讃えたのだと思います。一方で、この「エモい」という言葉はあまりにも「感情」に寄り添いすぎています。現実的な困難や解決策、ピンチなどから目を背けて「だもこの状況ってエモいよね」なんていう感情的な逃避ができてしまいます。そうなってしまっては、現実的な解決策を考えることなく感情に浸ったまま、社会的・物理的な死をゆるやかに迎えてしまいます。

 また、「美しい」寄りのエモさを追求しようとしても、現実からの遊離が発生してしまいます。美しさという物には麻薬的な快楽があります。体の芯から湧き上がるような、神々しい美しさに耐えられる人はいないでしょう。むしろ、現実の美しさを上手く脳内に再現できない人が、麻薬に頼って「美しさという快楽」を再現しようとしているのかもしれません。いずれにせよ、美しさだけにかまけていれば、麻薬中毒者のように現実を忘れて正気を失ってしまいかねません。

 

 エモいだけにかまけていると、感情に寄り添いすぎて理性を忘れたり、麻薬的な快楽に溺れたりして、いずれにせよ現実から離れてしまいます。将来の事を考えて現実的な努力を積み重ねる上では、エモいという感情に蓋をする場面も必要になってくるのです。しかし、世の中には「エモい」に蓋をせずに、ひたすら耽溺できる人たちがいます。それは「ガキと芸術家」です。今回はそんな話をしていきます。

 

「ガキ(子供)」は生活や将来から遊離することができる。むしろ遊離しているからこそガキである

 ここではガキという表現を使いましたが、イメージとしては20歳前後の若い人を想定しています。20前後というものは、「大人の世界の快楽や欺瞞」に初めて本格的にアクセスできる期間です。その期間を表す言葉こそが、青春という言葉なのかもしれません。世界観が大きく変わり、今まで知らなかった酒や各種行為への快楽も知ることができます。一方で、大人の世界の欺瞞を感じ取ったり、その欺瞞に適合できなければ「社会不適合者」として破滅する将来もチラチラと見えてきます。そのような「経験の津波」を浴びせられて混乱した心情こそが、「エモい」という物なのかもしれません。

 そして、「他人を食わせる」という生活や現実に直面しない限りは、その混乱を「こんな風に混乱している自分ってなんかエモいな」と解釈して、自己愛や自己憐憫に基づいた「エモさへの耽溺」をすることができます。そしてその耽溺は、生活や将来から遊離している間だけ、可能になるわけです。また、20歳前後はまだ体も若く、肌にもハリがあります。つまり、「生物として美しい」わけです。自分の「生物としての美しさ(若さ)」に対する、ナルシシスティックな耽溺も、「エモい」の一つの側面かもしれません。「エモい」が恋愛と紐づきがちなのも、その辺に理由があると思います。

 

 そして、若いころというのは基本的に将来を考える必要がありません。もちろん就活やバイト、勉強など、将来の生活を考える場面はあります。しかし、「他人を養う」事は基本的に要求されません。10代で妊娠したり、20歳で起業したりして「他人を食わせなければならない」というプレッシャーに直面した人は別ですが、基本的に自分の事だけを考えていればよいわけです。それは自動的に、「別に今の生活が破綻しても、困るのは自分だけだ」という開き直りとなり、自分の生活を支える気概も薄れてしまうでしょう。

 そうやって生活や将来から遊離できるからこそ、「エモい」という言葉に耽溺することができます。物理的な自分を完全に忘れて、自分の精神的な部分でひたすら遊ぶことができるわけです。また、将来を考えなくていいので、「破滅」をロマンティックに感じることも出来てしまいます。一時的な快楽にひたすら身を預けて、このままでは将来ヤバいぞ、という実感を持ちつつも、その様な破滅に「エモさ」を感じ取ってしまい耽溺してしまうのです。

 

 私は生活からの遊離は一面的に悪いことだとは思いません。むしろ以前、日本社会は長期休暇のような「現実からの遊離」を可能にして「徹底的な怠惰をむさぼることで、アイデアが生まれるのではないか」というような記事を書いたことがあります。

it-is-all-fiction.hatenablog.com

しかし、社会に出て実際に「生活」「将来」「他人を食わせる」事を考え抜いた経験がある「大人」と、その経験がない「ガキ」では、怠惰から得られるものがまったく違うとも思います。大人の側は、現実から遊離して怠惰をむさぼっても、「現実」を割とすぐに取り戻すことができるでしょう。むしろ、「現実」と「怠惰」の落差を見ることで、より新しい視点を獲得できると思います。

 しかし、「ガキ」は「現実」を知りません。そのため、現実から遊離して、ひたすら「エモい」の方向に最速で飛び上がってしまいます。そのあとに「現実」を獲得することは困難でしょう。若いころから定職に就かずにバンドや文学、お笑いの夢に向かって「最速で飛び上がっていた人」が、現実になかなか戻れない場面を想像すればいいと思います。

 しかし、才能と努力によって「最速を出すことで見られる次元を超えたエモさ」を感じ取り、表現できるようになった人には、社会は居場所を提供してくれます。それは芸術家という職業です。

 

芸術家は「社会との遊離」を社会に還元することでご飯を食べている

 芸術家は社会から遊離した存在です。もちろん定職についている芸術家もいますが、「一般人には見えない世界」を描き出し、社会に提供していることには変わりありません。芸術家というと大げさになりますが、漫画家、ミュージシャン、小説家などの大衆娯楽の提供者も含みます。

 芸術には定まった定義はありませんが、「人の心を動かす(エモい感情にさせる)」という機能があることには変わりないでしょう。つまり、芸術家というのは「人の心を動かすプロ」なわけです。芸術家は「エモさに耽溺・沈潜する過程でみた何らかの景色」を社会に提供する能力が高い人たちなのだと私は思います。センスのない一般人がエモさに耽溺・沈潜しても、大したものは見れませんし描けません。

 そして、その様な芸術家がエモさの深淵を覗き込む過程で「見て」、「描いた」景色が社会に還元されると、人々は感動します。その感動がお金を呼び、芸術家の「生活」を支えることができます。芸術家は、一般人には不可能な「エモさへの耽溺」を「お金」に変える能力を持っています。だからこそ、彼ら彼女らは「エモさ」に耽溺することが許されている、むしろ社会から要求されている人種なわけです。ただ、だからこそ、芸術家は極端な政治思想を持ったり、精神疾患になったりしてしまうのかもしれませんが。

 

 とにかく、「大人」は、現実を前にしてエモさに蓋をしています。しかし、抑えているだけだといつかあふれだしてしまいます。そこで、芸術家が提供してくれる「エモさ」でガス抜きをしているのでしょう。センスのないガキが「世の中は嘘だらけだぜイエイイエイ。ウォウォウ」と下手くそな歌詞と歌声でうたったところでムカつくだけです。しかし、ジョンレノンや忌野清志郎のような「滅茶苦茶センスのいい、大人になりきれないガキ」の歌であれば話は変わってきます。彼らの歌声は、大人が「日々心で蓋をしてきたエモさ」を程よくガス抜きしてくれるのでしょう。

 人間は社会(世間)に完全に適合できない以上、何かの「遊離」、つまりエモさがつけ入る隙を心のどこかに持っています。しかし、現実という分厚い課題を前にすると、そんな遊離にかまけていられません。むしろその遊離を押し殺し、エモさにも蓋をして制御しなければ生活が破綻してしまいます。

 ただ、むしろその遊離やエモさを爆発させ、「価値」に昇華できた一握りのハイセンスなひとだけが、「芸術家」として評価されるのでしょう。そしてだからこそ、芸術家は「エモさに耽溺すること」が許されるのです。

 

「年を食った後に遊びを覚えるのは危ない」は、ガキ時代にエモさへの免疫を着けなかった後払い

 話は唐突に変わりますが、「年を食った後に遊びを覚えるのは予後が悪い」というのは昔から言われています。永井荷風の『墨東奇譚』は1936年に書かれた文学作品ですが、ここでも「年を取った後の遊びはタチが悪い」というような話が出てきます。実際に、30代、40代になってから初めて恋愛関係の火遊びすることを覚えた人や、酒やギャンブルにはまった人が限りなく落ちていく様は簡単に想像ができます。

 この中でも特に恋愛関係の火遊びについては、若いころに「エモさ」に耽溺する機会がなく、免疫がついていないためにはまり込んでしまうのではないでしょうか。恋愛というものは喜び、悲しみ、快楽など、様々な感情が押し寄せてくるもので、それはまさに「エモい」体験です。若いうちは無秩序な恋愛や行為を「エモいよねえ」といってナルシシスティックに耽溺しても、そこまでダメージはありません。それに、時間とともに否応なく突きつけられる現実を前にして、徐々に「エモいとか言ってたけど、マジでくだらなかったよね」といって卒業することができます。

 しかし、30代、40代になって初めて「エモい」に直面し、耽溺してしまうと、予後は悪くなります。20代のうちの現実逃避はまだ取り返しがつきますが、30代40代での現実逃避は、そのあとの巻き返しが難しくなります。また、20代とちがって社会的信用を積み上げたうえでそれをぶち壊すことになるので、「バッテン」がついてしまいます。

 20代が多少オイタをしたところで、ゼロがちょっとしたマイナスになるだけです。しかし、中年がオイタをしてしまえば、積み上げた10や100が一気にゼロやマイナスになるだけでなく、「あの人はあの年になってもああいうことをする」という評判が尾を引いてしまいます。しかも本人には「エモさ」への免疫がないので、そのような破滅ですらも「なんだかこういうのも人生でありだなあ」という風に正当化してしまいがちです。自己憐憫や自己愛への耽溺というものは、麻薬のような快楽をもたらします。その様な麻薬は、麻疹かオタフク風邪のように若いうちにかかっておくべきなのでしょう。

 

 今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、できればフォローをお願いします。

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