全てフィクションです。

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いじめっ子に人権教育をしたら、「人権侵害者は〇す!」というイジメが発生した

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はじめに

 スキャンダラスないじめ事件や犯罪が話題になると、「人権教育を適切にしていればこのような悲劇は防げたはずだ!」という意見が出てきます。確かにそうかもしれないのですが、人権というものが「人工的な概念」である以上、人権を適切に教えるというのはなかなか難しいものがあるのかもしれない、と私は思ってしまいます。

 「人権」のほかに「自由と平等」「法の支配」のように、現在の社会では人工的な概念に支えられているものが多いです。それらは人間の獣性とでも言うものを理性によってコントロールし、個々人や共同体に幸福をもたらす、というような建付けで導入されているようです。

 

 確かにこのような人工的な概念は私たちの生活を支えてくれるものではあります。それに、人間の獣性や暴力的な利己心を抑え、健全な社会を築くための土台になってくれます。しかし、じゃあだからといってこのような「人工的な概念」を単に教室で教えれば「皆が人工的な概念を適切にインストールし、社会に平和と幸福が訪れる」のかというと、なかなか難しいものがあると感じています。

 「人権という概念」が「概念」、つまり「道具」である以上、それは結局「その道具を使う人の素質や思考」に大きく依存します。使う人が獣性に基づいて「人権という道具」を使ってしまえば、悲劇が起きてしまうのです。それはまるで、包丁や工具といった「人間の生活を豊かにするはずの道具」が、使う人によっては犯罪に利用されるようなものです。

 まあ、「人権という道具の適切な使い方を教えてこそ、適切な人権教育といえる」というのはあるかもしれません。しかし、話はその様な理想論だけではうまくいかないと思います。人間が結局動物であり獣性を抱えている以上は、なかなか理想論だけではいかない部分も多いのです。今回は、そんな話について書いてみます。

 

人権教育に感動するいじめっ子ヤンキー

 私が在籍していた中学校では、いじめっ子のヤンキーがいました。彼はその場の気分で人を殴り、そして口が達者なので教師とも上手く関係を築いているという、なかなかにタチが悪い存在でした。しかも面倒くさいことに極端な気分屋なので、その場その場で言うことがコロコロ変わります。彼の気分を読み間違えると理不尽な鉄拳が飛んでくるわけです。

 気分屋ということで、彼は思考力に問題がありました。表面的なIQは決して低くはないようでしたが、とにかくメタ認知力が低かったのです。自分の過去の行動と現在の行動の一貫性を保つということや、自分の言動の矛盾点にとにかく鈍感なのです。しかも自分の発言を覚えていないので「これやっといて」といって他人をパシった後に、「そんなことをしろとは言ってねえ!何勝手にやってるんだよ!」と怒り始めるわけです。まあとにかく、面倒くさい独裁者でした。

 そんな彼の圧政にひたすら耐えるだけだった教室だったのですが、ある時転機が訪れました。「人権教育」という授業にそのヤンキーが感動したのです。人権以外にも、自由や平等、法の支配、平和憲法など、そのヤンキーは「近代社会を構成する美しい原理」にいたく感動した様子でした。教師に食い入るように質問していた彼の姿は、暴虐少年が「改心」したのかのような、とても健気で美しいものでした。

 

 人権教育が終わった後、ヤンキーは急に優しくなりました。「みんな平等だ」「君には人権がある」のような打って変わった美しい言動をするようになり、今までイジメ倒してきた哀れな庶民たちにも慈愛の心をもって接するようになりました。「これで平和が訪れる」という期待がクラスに広がりました。確かに、人権教育の後の数日間は平和そのものでした。彼は人権や自由や平等という概念を学び、優良青少年に生まれ変わりました。

 しかし、その平和も長くは続きませんでした。次第に彼は「人権」という正義のこん棒を使って、人を殴り始めたのです。かれは「人権の何たるか」はかろうじて学んだようですが、「人権侵害のなんたるか」はまったく学んでなかったのです。そこから悲劇が始まりました。

 

人権という「正義」を人を殴る道具として使い始めたいじめっ子ヤンキー

 人権教育を受け、適切な人権規範を身に着けたはずのヤンキーが、どうしてイジメを始めてしまうのか。理解に苦しむ読者もいるかもしれませんが、人間とは正義を他人を殴る道具として使ってしまうものです。

 彼は、教室にある「些細な人権侵害」に目を光らせるようになりました。例えば、哀れな庶民である我々陰キャラが互いに軽口をたたき合ったとします。「おまえチビやな」「そういうお前こそデブやな」というような、互いに対等にいじりあってコミュニケーションをとるといった感じです。まあ見た目に関する軽口をたたくのはいかがなものかとは思いますが、互いにちょっとした欠点をあげつらって本人同士が面白がる、というのは楽しい雑談の一形態ではあります。

 しかし、人権の擁護者にして憲兵隊長のヤンキーはそのような「些細な人権侵害」を見逃してはくれません。「お前ら人権侵害をするな!!」と怒り心頭になり、陰キャラたちに鉄拳を下すのです。そして彼には、軽口という軽度な人権侵害よりも、人を殴るという文字通りの暴行の方が「人権侵害としてヤバくね?」という感性を持っていないようでした。

 

 むしろ、「些細な人権侵害すらも実力によって取り締まることで、本当の人権が実現するのだ」というような、どこかの大国が戦争の口実にしそうな理屈をひねり出してきたのです。こうして、教室は再び彼による圧政に支配されました。少しでも「人権侵害」とみなされる言動をすれば、こちらの人権が文字通りはく奪されてしまうのです。

 彼は本気で「人権を守りたい。人権を実現したい」と思っていたのかもしれません。しかし、人権を「正義という名のこん棒」として人を殴る道具として使っていたのは事実です。「正義を所有した人間は暴力的・嗜虐的になる」というのは最近のインターネットでは半ば陳腐になった表現ですが、彼はまさにこれを体現していたわけです。私はほとほと、「正義って意味ねえじゃん」と思ってしまいました。

 

 まあこの場合は、「人権」という概念よりも「正義をこん棒にしてしまった彼の行動」こそが批判されるべきかもしれません。しかし、「人権」という概念が「人を殴る道具」に利用できてしまうというのは「人権という概念に内在している一種のバグ」であることは確かでしょう。まあそれでも、「神の意志」「前世の因縁」「天の導き」「マルクスの理想」などの概念よりはまだ「バグの程度がマシだと西側諸国の人は思っている」からこそ、「人権」という概念は西側社会に実装されているのでしょう。

 とにかく、そんな人権警察と化した彼による暴力は苛烈を究めましたが、しばらくすると収まりました。彼が人権を真に理解したからではありません。単純に人権に飽きてしまったからです。まあそれでも、彼の暴力性には何も変化はありませんでした。彼は「人を殴らない」という理性よりも、「人を殴りたい」という獣性で動いていたようです。

 しかし、その様な「理性の皮をかぶった獣性」は、誰もが心当たりがあるかと思います。口ではいいことを言いながら、後から振り返れば自分の三大欲求や嗜虐心、利己心に突き動かされていただけだった、と反省したような経験です。人間というのは結局そういうものなのかも知れません。

 

「理想」が「地獄を出現させる」ことは歴史上もよくあること

 月並みな言い方になりますが、理想というものはえてして地獄を出現させるものです。共産主義政権の独裁者はまさにそのような事例ですし、冷戦初期のアメリカでのアカ狩りや、日本でいう大東亜共栄圏です。大東亜共栄圏は流石に露骨な支配欲をむき出しにしていますが、それを素朴に信じて、道徳に満ちた八紘一宇の夢を抱いた青年将校もいたわけです。

 また、身近な例でいうとブラック企業の経営者が「社会に幸福をもたらす」というスローガンのもとで、社員を過労死するまで使い倒す事例もあります。これは、「君はもっと働く必要がある。なぜなら君は社会にまだまだ幸福をもたらしていないからだ。さあ、睡眠も食事も削って、社会の幸福のために働きなさい」というロジックが出来てしまうからです。

 理想がこのような地獄を生み出す理由の一つには、その理想を「道具として利用する」人間の悪徳に着せられるべきでしょう。しかし、それにしては理想を圧政の道具にする人があまりにも多い。おそらくこれは、「理想」というシステムが本来的にはらんでいる仕様なのかもしれません。

 

 第一に、理想、特に美しい理想というものは絶対に実現されることはありません。理想というものは形而上(神とか仏の世界)の概念か、リソースが無限にあることを前提にして組まれています。しかし、人間は形而下(俗世、現実)に生きる存在ですし、寿命がある以上リソースも限られています。このギャップがバグの温床となり、「理想を実現できていないお前は〇ね!」「理想の実現のためにはお前を〇す!」というような、地獄を出現させるのでしょう。

 第二に、理想というものは「人間が考慮する要素を減らしてくれる」という機能が存在します。例えば「愛国心」という理想を持ってくれば「戦場で殺される敵兵の悲しみ」という要素を無視することができるようになります。「理想の実現」という要素が重視されるあまり、他の要素を簡単に踏みにじれるようになるのです。

 

 このように、理想というものは非常に厄介な性質を持っています。じゃあ、人権や愛国心、幸福という理想を否定すればよいのかというと、また話が変わってきます。その様な理想が無ければ、文字通り人間は「動物」になってしまい、獣性を爆発させた万人の万人に対する闘争状態、文字通りの生き地獄を出現させてしまうでしょう。そのような最悪の地獄が出現してしまうくらいなら、理想でそれなりの地獄にセーブしておいた方がまだましなわけです。

 ヤンキーの話から、大言壮語にまで至ってしまいました。今回の記事はこのへんで終わりにしたいと思います。ツイッターもやっているので、是非フォローをお願いします。

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