全てフィクションです。

全てフィクションです。

「無能に生まれた自己責任」という理不尽な十字架を背負っている、境界知能の人たちについて

f:id:it-is-all-fiction:20220228201813p:plain

はじめに

 世間には「境界知能」と言われる方々がいます。境界知能とは、IQが71〜85の人たちを指す言葉であり、理論的に言えば社会全体の14%、つまり6〜7人に一人ほどの割合で存在しているとされています。境界知能の人については「理解力がどうしても低い。感情の起伏が乏しい。そしてそれらの特徴(欠点ともみなされうる)は、生まれつきの物であって親の教育などのせいではない」というような事が言われています。誤解を恐れず、そして差別的な表現を使うことが許されるならば、境界知能とは「先天的に無能に生まれついた人々」という言い方になってしまいます。

 しかし、世間はそんな事に配慮してくれません。「無能なのは勉強していない自己責任」「そんな事も理解できないのは努力不足」というような、無理解で冷たい対応をしてしまうそうです。実際に、私自身の過去の言動を振り返ってみても、今思えばあの人は境界知能だったのかもしれない、というような人々に冷たい言葉を発してしまったことがありました。

 そして、彼ら境界知能の人々はおそらく「知識社会の犠牲者」だと私には感じられます。文書や計算に基づく官僚的な手続きがいたるところに張り巡らされた知識社会というものは、文書や計算が先天的に苦手な人を排除してしまう性格を持っています。それはまるで、運動神経が悪い人を排除する学校の体育の授業のようなものです。もしくは、先天的にアルコールが飲めない人を排除する一気飲み文化のようなものでしょうか。いずれにせよ、深刻な社会問題ではないのかと思います。

 

 今回の記事では、そのような境界知能の方々が置かれている世界について考えていきます。彼らが背負う「無能に生まれた自己責任という十字架」が、どれほど重いものなのか、そして我々が彼にしている差別がいかに無自覚なのかを考えていきたいです。

 

境界知能という用語、そして彼らについて

 先述の通り、境界知能というのは、IQが71から85程度の人を示す用語です。ここで簡単にIQについてウィキペディアをもとに説明すると、IQ85〜115の間が平均知能とよばれ、約68%の人がこの範囲内に収まるそうです。また、IQ120以上の人々は全体の約15%ほどがいるそうです。つまり、IQ120以上というのは誤解を恐れずにいうと「6〜7人集めると、だいたいそのなかで一番頭がいい」ということになります。IQというものはテストと統計学を使って理論的に導かれた値という側面もあるので、IQの数字はざっくりと「世の中にいる人間のうち、その人の知能がどのへんにランクインするのか」を冷徹に指し示すことになります。

 そして境界知能というのは、上記のようにIQが71から85程度の人の事です。これは理論的にいうと14%ほどの割合です。つまり、境界知能と呼ばれる人は「大体6〜7人集めると、その中に1人いてもおかしくない」という割合です。学校の40人クラスでいえば、40人中6人から7人ほどいることになります。つまり、境界知能という仰々しい名前がついているものの、全然「その辺にいる普通の人」なわけです。

 実際、このような感覚は私の経験にも整合的です。公立小学校や公立中学校では雑多な人種が集まりますが、大体6人から7人に一人くらいの割合で「いま思い返せば、あの人は境界知能だったのかもしれない」という人がいました。彼らは別に普通の人です。ただ、勉強がどうにも苦手で、単純な四則演算であれば対応できるものの、「時間と距離の関係」や「方程式」という内容になると、かなり苦労していました。また、勉強が苦手なだけでなく、概念や仕組みそのものを理解するということが苦手なようでした。そのため、委員会や生徒会、部活などでの実務を任せると、何かと致命的なミスをやらかします。そして彼らと漫画やアニメ、ゲームの話をしていると、どうにもそれらコンテンツのストーリーを理解していないようでした。

 

 彼らは別に特に性格が悪いというわけでも、見るからに「障害者」という感じでもなく、友達付き合いをする分には全然気持ちよく過ごせる相手でした。ただ、もし将来この人と一緒に仕事するのであれば、それはちょっと遠慮したいな、という気持ちが湧き上がってくるというのも事実でした。そのため、当時は冷たい言動をとってしまったな、と今では反省することもあります。

 卒業後は彼らと特に連絡を取ることはありませんでした。やはりどこかで「話が合わない」という事をお互いに感じ取っていたのかもしれません。そのため、彼らが成長した現在どのような仕事をし、どのような生活を送っているのかは分かりません。しかし、私があるバイト先で出会った人は、ああ、この人は境界知能なのかしれない、と思わせる人でした。

 彼は運転免許を持っていて、仕事に関する手続きも(社員のサポートを受けつつ)出来ていたようなので、なんとか社会に適応できているようでした。しかし、借りた金を返さなかったり、交通ルールを無視したり、書類に書く漢字を間違えたりと、何かと問題を起こすトラブルメーカーでもありました。社員はそんな彼に何度も説教をしていたようですが、彼はどこ吹く風といった様子でした。思えば、彼は「将来の話」や「金銭関係という抽象的な話」がなかなか理解できなかったのかもしれません。

 それはいい悪いの問題というよりは、「そういう風に生まれついたのだから、そういう風に生きるしかない」というような印象を受けました。下戸に生まれついた人が、どれだけ酒を飲もうとしても飲めないように、彼は「抽象的な概念」という道具を、そもそも手に握ることができないようでした。

 

境界知能の人が見ている世界を想像してみる

 では、その様な境界知能の人たちが見ている世界というのはどのようなものなのでしょうか。彼らが見ている世界を想像するアプローチの一つとして、「自分の知能を下げてみる」というものがあると思います。例えば、徹夜をするとIQは10程度下がるそうです。つまり、IQ100の「平均的な人」が一晩徹夜をするとIQ90になる、とざっくり考えることができるわけです。一晩徹夜をするとだいぶ頭が動かなくなりますが、境界知能の方というのは「IQ100の人が一晩徹夜をした状態」よりも低い知的能力で日常を送っている、と想定することが出来そうです。こう考えてみると、彼らが直面している困難の大きさが多少なりとも想像できます。

 徹夜をすると「普段できているはずの計算や読み書きができない」というような状態になります。ゲームや漫画でも、普段はスラスラとこなせたり読んだりできる内容に何度も引っかかったり、普段だったら絶対にしないような間違いをしてしまったりします。徹夜の状態で仕事をして、普段はしないようなミスを連発してしまった経験があるひともいるでしょう。境界知能の人というのは、そのような状態をデフォルトで過ごしている、と考えることができるかもしれません。

 

 また、もう一つ別のアプローチとして、「周囲の頭がべらぼうに良くなる」という事を想像してみます。例えば、周りの人が全員IQ130以上になるような想像です。ここで例に挙げるのは東大生の世界でしょう。世間では「東大生の平均IQは120くらい」という言説もあるようですが、これはおそらく間違っていると思います。個人的な経験からいうと、おそらくIQ120というのは「東大に入れる最低ライン」であって、東大生の平均的なIQは130程度なのではないでしょうか。

 つまり、境界知能の人というのは、普通の人間が東大生の集団に放り込まれたようなものです。東大生という人種は異様に頭が切れます。東大の入試問題を見たことがあるのですが、「18歳の時点でこんな難解な問題を解ける人間に囲まれたら、自分は手も足も出ないな」という実感を覚えたことがあります。また、実際に東大生の人々は、数学や外国語、法律や会計学という「論理の塊」をサクサクと処理していきます。そんな彼らが「当たり前にできていること」を要求されるようになると普通の人は絶望的な思いを抱えるでしょう。境界知能の人々も、日々その様な絶望的な体験をしているのかもしれません。

 また、「普通に要求される知的能力のハードルが上がっている世界」を想像することも一つのアプローチなのかもしれません。小学校高学年で微分積分をこなすのは当たり前、生徒会などの手続きで行政なみの複雑な処理をするのが当たり前、スポーツのルールブックが六法全書なみに分厚い、などです。このような世界に東大生が放り込まれても何とかやっていけるかもしれませんが、私のような一般人が放り込まれたら対応できる自信がありません。このような、絶望的なまでの知能の格差をひしひしと感じさせる世界、これが境界知能の方々が見ている世界なのではないでしょうか。

 そして彼らはその様な世界の中で、「無能(に生まれた)ことそのものの自己責任」という、理不尽な十字架を背負って生きているのかもしれません。しかし、彼らはそれに対して効果的な反論ができないと思います。なぜなら先天的に知的能力が低いがゆえに、「言論の力で自身が置かれた不利な立場を表明していく」ということが難しいのですから。彼らは、「無能に生まれた自己責任という十字架」を、おろしてもらう機会をなかなか得られないのです。

 

知識社会である現代社会は、「先天的知能による差別」という隠された大問題を抱えている

 現代社会は知識社会でもあります。文書による統治が隅々までいきわたり、識字率や計算能力が社会的に重要な指標とされています。その様な形態の社会には良い面もあります。基本的に論理で物事が動くので、手続きシステムに信頼性が確保されているのです。法の支配とはいいますが、「誰がやったのか」ではなく「何をしたのか」という論理的で公平な処理が可能になります。これは、前近代の社会にはない素晴らしい点でしょう。

 しかし一方で、そのシステムを「理解できない」体質の人を排除するという面も持っています。実際に、就職試験では「適性検査」という名のもとに「知能検査」が行われます。これは、会社という官僚機構の仕組みを「理解できない」人を、最初から排除するという意味です。もしもその様な知的能力が完全に後天的に習得可能なのであればそれは合理的な差別と言えるかもしれません。しかし、境界知能の方はおそらくその様な知的能力を得ることができません。それは、下戸が酒に強くならなかったり、身長が低い人がダンクシュートを決められなかったりするのと同じでしょう。

 

 境界知能という物は先天的な要素です。また、知能というのもかなりの程度先天的に決定されることが示されているそうです。現状、このような先天的な要素で「選抜」することは社会的に許されています。しかしそれは、まごうことなき差別なのではないでしょうか。差別とは、生まれついた身体的特徴や生育過程で培った信念で理不尽な区別をすることだ、というのが一般的な定義でしょう。しかし、この定義では「精神的な領域」が無意識に排除されています。「外面ではなく、内面を見るのだ!」という(素晴らしいとされる)言葉には、「内面は後天的に身に着けられる、選択可能なものだ」というニュアンスが潜んでいます。

 知能も、「後天的に伸ばすことができ、その様な意味では努力の結果であり自己責任で、選択可能なものだ」という風に一般的に解釈されています。しかし、おそらくそれは誤った理解でしょう。知能はある程度先天的に決定され、「外面」とおなじように「選択不可能」な物なのです。知能によって人間を区別することは、差別そのものだと私は思います。

 そして、現代はこの「知能差別」があまりにも蔓延しているので、それを自覚することすら難しいです。そのような「区別」は当然のこととされています。しかし、歴史的にみて「当然とされる区別」は、後世になると「理不尽な差別」だと糾弾されることになります。奴隷と自由民、貴族と平民、人種などです。知能による差別は、後世になるとおそらく糾弾されるでしょう。

 しかし、知能による差別がなければ社会が回らないという事も事実です。官僚的手続きが至るところで求められる現代社会では、ある程度の知能というものが最も要求されます。知能差別を撤廃して境界知能の方を組織運営の要職につけてしまったら、かなりの人々が困ることも確かです。この「知能差別」という問題は、社会構造や社会の根底の価値観が大きく変わらない限り、なかなか正面から取り扱うことは難しいのだとも思います。

 

 今回の記事はこの辺で終わりにします。ツイッターもやっているので、是非フォローをお願いします。

twitter.com