全てフィクションです。

全てフィクションです。

この世の色について。クソみたいなこの世への復讐について。

人生は何色か、と問われたら、どうでしょうか。理想的な答えは、「バラ色」だろう。悲観的に言えば、「紺色」だの「黒」だのがあるだろう。だが、おそらくその答えは「虚無」だと私は思います。

 

「虚無」は色ではない、と思われるでしょう。ところがまあ、乱暴に理屈をつなげれば、虚無という色が導けるわけです。

 

そもそも、「色」とは何でしょうか。リンゴの赤でしょうか。海の青でしょうか。違います。「脳が見せる幻想」なのです。

 

生物は進化の過程で「視覚」と「色覚」を獲得しました。進化というと何か希望的な道のりが想像されますが、実はそうではありません。「死んだ者は死に絶え、たまたま生きた者が持っていた性質が受け継がれた」というだけの話です。分かりにくいので、具体的な例で示しましょう。

 

人間は暗闇に恐怖を覚える生物です。それはなぜか。「暗闇をうろついた人間は殆どが野生動物に食い殺された」からです。そういう悲しみの上に、人類は「暗闇に恐怖を覚える」という進化を遂げたのです。

人間には夜行動物としての能力はありません。暗闇を見通す視力はありません。鼻も耳も悪いです。つまり、暗闇の中で肉食動物に近寄られても、気付かずに食い殺されてしまう生き物です。

 

原始人の中には、おそらく「暗闇を恐れない」個体も存在したのでしょう。しかし、そういう個体は夜行能力を持っていませんでした。鼻も耳も目も、その辺の猫にすら負けるからです。「闇を恐れない個体」は、夜をうろつきました。そして、ヒョウや蛇に食い殺されたのでしょう。

 

しかし、それこそが進化なのです。暗闇を恐れる個体は死に絶え、暗闇を恐れる個体が残りました。その結果、人類は「暗闇を恐れる」という「能力」を手に入れたのです。

 

「色」も、そうやって人類が獲得した能力です。犬は色を持ちません。ペットを飼っている人には常識かもしれません。しかし、人間の大半は「色」を持っています。それは、「色」を持っていない人間の大半が死に絶えたからです。こういう悲しみの果てに、人間は「色という能力」を獲得したのです。

 

色を持っていない、つまり色が分からない人間は、生存上不利になります。死に直面します。(その中でも生き残った人々が、色盲として自衛隊に入れなかったりするんですけど)果物が熟しているのか、肉が焼けているのか、空の雲は何色なのか、そういったものを認識できません。そういった「不覚」は、原始人にとって致命的です。栄養失調、食中毒、自然災害などに巻き込まれて、簡単に致命的なダメージを追ってしまいます。

 

現代は「色」への配慮が整っています。しかし、そのような配慮はここ数十年の事です。人間は何十万年前、何百万年前に誕生してからずっと、「色」に頼って生きてきました。その間に、「色」を持たない人は殆どが死に絶えてしまったのでしょう。ただ、そのことは、色覚障害の方を差別する根拠にはなりません。人類文明が色覚への配慮を獲得した以上、その配慮は全力をもって達成されるべきです。

 

話がずれました。結局言いたいのは、「進化」というのは、絶望と悲しみにまみれた現象だという事です。たまたま適応した個体が生き残り、そうじゃない個体は死に絶えたのです。そのなかで、生き残った個体の特性が増幅された現象こそが、進化です。そして、「色」というのも、その現象において獲得した能力です。「色」を持たない先祖が殆ど死んだからこそ、私達は「色」を持っているのです。

 

そして、人生というものは、そういう絶望的な死の連鎖の果てに輝く炎なのです。その色は何色でしょうか。私たちの祖先はたまたま生き残ったのです。「暗闇を恐れる」とか「色を持つ」とかいう能力のおかげで。その能力を持たない個体は死んだのです。死の上に、私達の能力はあるのです。

 

「色」ですら、進化という絶望の中で掴んだ能力です。「色」は、死の上に成り立つ「能力」でしかありません。「人生は何色か」という問いは、その様な死を侮辱する問いなわけです。

 

目を持たないご先祖様は死に絶えました。何億年前の話です。色を持たないご先祖は殆どが死にました。何万年前の話です。その死の果てに、私は目が見え、色を見るのです。目が見え、色を見るご先祖様が生き残った結果が私です。私は死に支えられているのです。生きることに色などありません。暗闇すらありません。ただ、虚無のみが存在するのです。

 

「生まれる」という事にも、死は関係しています。生殖活動は快感です。逆に言うと、生殖に快感を感じないご先祖は大半が死にました。いや、子孫を残す前に死にました。生殖なんていう面倒くさい行為は快感なしではできません。そういう快感の果てに、私は産み落とされたのです。これ以上の虚無はないでしょう。

 

人生の色は虚無です。「生命の連鎖」といえば美しく聞こえます。しかしそれは「快楽の連鎖」でしかないのです。その末に私は生まれました。その末に私は幸福を感じました。その末に私は不幸に絶望しました。

 

この絶望の連鎖は尊いのでしょうか。醜いのでしょうか。しかし、私たちはもう、止まることはできません。止まる事はすなわち死です。死は、もっと絶望的です。その絶望から逃れるためにあがくのが、人生という虚無なのではないでしょうか。色ですら、その虚無の果てにあるのです。幸福も不幸もありません。ただ、虚しい連鎖の果てがあるのです。その果てに、惰性として私達が生まれました。

 

我ながら宗教染みていると思います。ただ、現実を私なりに解釈したらこうなりました。一面的な解釈です。ただ、「人生の目的」や、「生きる意味」に縛られる必要もありません。全ては虚無です。目的も意味も最初からないのです。惰性です。その惰性の中で、精一杯幸福になろうではありませんか。それこそが復讐なのです。くそくらえなこの世への復讐なのです。

 

幸福も不幸も、死の上に成り立ちます。感情がないご先祖様は、無気力に死に絶えたのでしょう。感情を持つご先祖様だけが、虚無に抗って子孫を残したのです。快楽という幸福に従ったのです。その子孫が私達です。快楽と幸福こそが、虚無に打ち勝つのではないでしょうか。

 

このクソみたいな世界に、復讐をしようではありませんか。幸福になることで。その幸福すらも、死という虚無に支えられるものなのですが。ただ、虚無にのまれることこそ愚かです。それは負けなのです。せめて1つの復讐をしましょう。幸福になることで。人生に意味を持たせることで。虚無を塗りつぶすことで。色をもたらすことで。

需要と供給の法則をハックしたければ、生まれ直すしかない?

 マルクスは亡霊になり、神も仏も行方をくらまし、ただアダム・スミスミルトン・フリードマンだけが立ち続けている。全ては需要と供給で物事が決まるが、市場の粘性は需給を歪ませる。全てが商品となり、人間とやらが玉ねぎのように剝かれていく。そこに残っているのは何か。

 

 かっこよさそうな言葉を並べてみました。すみません。お金って大事ですよね。でもどこにあるのかよくわからない。自己責任とは言うけれど、努力の方向性をどこに見出すのか、という努力のための努力をしなければお金はどうにも入ってこないようです。

 

 今は基本的にお金さえあればどうにでもなります。そりゃあ京都の紹介制の高級店とかになれば別でしょうが、お金があるお客さんを拒む店はそうそうありません。高いお水の店とかだと見た目をきちんとしなければいけませんが、見た目だって美容院でセットしてもらって、いい服屋でマネキン買いすれば最低限は保てます。見た目もお金で買えるわけです。お金を持ってれば基本的にお客様なわけです。

 

 だからこそお金では手に入りにくい「容姿」「能力」「親密な感情」を多くの人が求めるのでしょう。整形、自己啓発、水商売、この辺がいくらでも他人からお金を引っ張ることができる商売としてあげられます。本質的に金だけでは手に入りにくい「人間そのものに近い部分」の値段がどんどん上がっている。

 

 この辺は今回は置いておきます。まずはお金ってどこにあるの、という話をしたいと思います。別にお金のある場所を教えるのではなく、お金ってどこにあるの?という嘆きです。そして、お金を稼ぐには需要と供給の法則をハックすればよいわけですが、それに必要な「スキル」とやらって、基本的に生まれ持ったものでしか差別化できなくなるんじゃないの?って話をしていきます。まあそれだと辛気臭いので、最後にちょっとだけ希望に満ちた話をしてみます。

 

 

加齢臭がする「新時代の宣言」

 「いい大学に入って、いい企業にさえ入れば将来安泰な時代は終わった」という新時代の宣言は、自分が知る限りは90年代の本にはすでに書いてあります。新時代を語っている割にすでに使い古され、もはや加齢臭すらするこの言葉ですが、ある種の真理をついているからこそ30年以上も生き続ける言葉なのでしょう。

 

 「いい大学に入って云々」というのは、要は「テストで測れる能力だけでは上手くいかない」ということを言いたいのでしょう。実際、テストで測れる能力はどんどんコンピューターに奪われています。企業は知的処理をするホワイトカラーが不要になって、リストラだ早期退職だは定期的にニュースになります。とはいっても、医者や会計士、弁護士などのトップレベルの「ガリ勉」は未だに仕事があるようですが。

 

 近代経済学の神様はこう言います。「全ては需要と供給だ」と。つまり、需要が多くて供給が少ないものに高値が付くわけです。知的単純作業に従事するホワイトカラーはコンピューターのない時代には需要が大きかったですし、高等教育人口が少ない時代とあっては供給も少ないものでした。しかし、コンピューターが発展・一般化し、高等教育も普及した今となっては、ホワイトカラーの需要は縮小する上に供給も拡大しています。つまり、ホワイトカラーは値段が安くなったのです。

 

 そうであれば、企業がリストラをして無駄な人件費を削減することは理にかなっています。彼らも市場で戦う身である以上、わざわざ不良債権同然のホワイトカラーを囲い込む義務はありません。全てを資本主義が飲み込んでいっているわけです。

 

需要と供給の大法則をハックせよ?

 じゃあ今現在で需要が大きくて供給が少ないのは一体何なの?となるわけです。それを見つけることができれば、お金にありつくことができるからです。でも、それは基本的に誰も教えてくれない。なぜなら儲け話を他人に話すお人よしはいないから。むしろ儲け話を持ちかけるのは、詐欺師と情報商材屋さんと相場が決まっています。

 

 いや本当にお金はどこにあるのでしょうか。お金が儲かる、つまり需要が大きくて供給が少ない分野は、確かに高い値段がついてお金を儲けることができます。しかし、高い値段が付いて儲かるということは、供給が増えて値段は次第に下落することを意味します。しかも「高い値段がついている」という情報が我々一般人に届くころにはバブルは終わりに近づいています。最近の例でいうと、「仮想通貨が儲かる」とCMで言われ始めた直後に暴落した、という例があります。

 

 需要と供給の法則をハックするためには、一般人より情報感度を高くするか、そもそも希少なスキルや能力を身につけておくことくらいしか私には思いつきません。ベンチャー起業家や良くわからない金持ちは「戦略的に立ち回ればお金は入ってくる。戦略を立てられないのは努力不足だ」と言います。しかし、戦略的に立ち回ってお金を稼ぐにはセンスが必要ですし、一般人はそれを持ち合わせていません。なぜなら、「一般人が持っていない金儲けのセンス」という希少な資源を持っているからこそ、戦略的に立ち回ってお金を稼ぐことができるのですから。

 

 それに、多くの一般人がもし今よりも戦略的に立ち回れるようになっても、結局一般人が稼げない事は変わりません。「戦略性という希少な資源」は、他者よりも高い戦略性をもってして初めて希少価値が出るからです。一般人の戦略性レベルが向上すれば、そこでより高い戦略性レベルを持つ人が稼いで同じことを言うだけです。希少性とは相対性の産物であって、皆が一斉に相対的に突き抜けることはないのです。ただ基準が高まるだけです。

 

 「需要と供給」という法則は簡単にハックできそうですが、全然簡単じゃありません。しかし、簡単にこの法則をハックできる方法があるのです。それは「希少な能力を持って生まれてくること」です。生まれ持った能力はだれにも奪われないし、誰にも真似ができません。つまり、供給が増えにくいわけです。

 

「才能」という「最強の希少資源」

 才能というのは希少資源です。マネできる人が少ないからこそ、「才能」といわれるのですから。こういうと、「才能をひがむな。努力しろ」とお叱りを受けますが、いやでも才能がなければ勝負の土俵にすら立てないことが普通です。IQ80に生まれ落ちた人に対して「勉強は努力で決まる」と残酷なことを言えますか?脳機能の関係で音感を認識できないタイプの音痴に向かって「歌が上手くなるための努力が足りない」と言えますか?まあ、そういう癖に酒が飲めない人へのアルハラは収まっていますが。

 

 全てが努力で決まるというなら、まずは知人の下戸に180㏄のウイスキーを一気飲みさせることができてから言ってください。努力や気合でどうにかなるなら、アルコールの代謝機能だって努力でどうにかなるでしょう。まあ現実はそんなことはなく、貴方は犯罪者として捕まるだけで終わりですが。まあ努力して脱獄でもしてみてください。

 

 人間のバグというか変なところなのですが、「一般的に要求される能力」や「自分がたまたま生まれつき才能を持っていた分野」ほど、努力でどうにかなると思いがちです。前者に関してはそういうことにしておけば都合がいいわけです。なぜなら、そうしておけば才能に恵まれなかった負け犬を「自己責任」の名の下に責任転嫁していじめることができるから。

 

 後者に関しては、まあ人間とは鈍感な生き物です。才能がある人間は「才能がない人間の苦しみ」を体感できない以上、才能がないものの痛みに鈍感です。自分が努力して経験値を貯めればレベルアップできたから、他人もそうだと思ってる。レベルアップしていないやつはレベリングをさぼっていると考えている。でも実際、アルコール代謝機能のようにレベリングができない人は、その分野に関してはどうやってもレベル1のままなのですが。

 

 才能という切符があって初めて努力が生きてくるわけです。そして、才能という希少資源を努力で伸ばすことで、その希少性はより高まります。数学やプログラミングに対して高い素質をもってこの世に生まれ落ち、しかも研鑽を怠らない人は、一般人には考えつかないような高給を手に入れていたりします。

 

 私が言いたいのは「才能があるやつは努力しないでいいから得だ」ではありません。むしろ、「才能があるやつは努力が報われて得だ」と思うわけです。そして、その才能と世の中の需要がマッチしていることも得なわけです。私には足の指で物を掴めるという「才能」がありますが、別にこれは世の中に需要はありません。単にちょっとした一発芸に役立つだけです。これが手先が異常に器用とかであれば、もっと需要があったのでしょうが。

 

 いろいろと話がずれてしまいましたが、才能とは希少だからこそ才能なわけです。それを努力で「スキル」や「センス」まで高めることで、ようやく需要と供給の法則をハックできます。しかし、皆が努力するようになれば多少の才能であっても埋もれてしまいます。なぜなら、レベル10の才能を持っている人間が24時間努力してしまえば、レベル6の人間には物理的に勝ち目がなくなるわけです。

 

 もしも今後社会が努力をさらに要求し、皆が自分に向いている分野で努力を重ねたなら、努力はただの「前提条件」になります。そこで存在感を発揮するのが「才能」なわけです。皆が限界まで努力を磨きこめば、その輝きの違いはもはや「才能」に依存してしまうのですから。

 

「自分の特殊な才能」が、ネットのおかげで日の目を浴びやすくなった

 才能について辛気臭い話をしてしまったので、最後にちょっとだけ前向きな話をしていきます。今はネットが発達して、情報の流通量が格段に増えています。これは個人として発信するだけでなく、受け取り側に立ってみても同じことです。

 

 突飛な才能をネットで公開してワンチャンスの金儲けを狙え!みたいなことは割と誰でも言っていることだと思うので、この記事では情報の受け取り手として考えてみます。受け取る情報が増えたということは、自分にとって才能がある分野にめぐり合う可能性が向上したことも意味しています。

 

 また、「どうしようもなく好き」という情熱も才能の一種です。好きであるからこそ主体的に取り組むことができ、他人よりも多くの経験値を入手できるわけですから。情報の流通量が増えたことは、「自分にとってどうしようもなく好き」な物事に出会える機会が増えていることも意味しています。自分の才能をネットで活かすというと発信者側として儲ける事ばかりが注目されていますが、「自分が才能を持っている分野にめぐり合う機会が増えている」という、情報の受け取り手としての機会も増えています。

 

 世の中が変化し続け、求められる能力も次々と変わる中で、「自分がたまたま持っていた、今まで埋もれていた才能」が日の目を浴びる機会もあるかもしれません。いつかこのような日が来ることを祈って、私は自分の中の才能を探す努力をしていきたいと考えています。